絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 3

2013-04-17 | 思い出
本庄高校のバスケット部は、あまり強くありませんでした。

しかし、一つ上の学年は、本庄西中学のメンバーが4人入っています。県大会で優勝したメンバーです。
だから、しっかり練習していれば、かなり強くなれるはずでした。
しかし、それがあまり強くならなかったのは、やはり顧問が素人だったからでしょう。
練習に先生が出て来たことはほとんどありません。試合の時だけ来てくれる先生でした。

実は、この先生も面白いことに、後に麓原会のメンバーになるのです。
本庄高校は、古川先生がいて、教員の仲間にも絵を教えていました。
バスケット部の顧問の先生は、物理の先生なのに、趣味は絵でした。
教員の仲間で絵の会を作って、柏美会という名前で活動し、文化祭などではその会で展示をするくらいでした。
古川先生のようなすごい先生がいると、そういうこともあるのですね。

尤も、高校1年の私にとっては、そのことは全く関係ありません。
まだ、私は絵のことがなにも始まっていないのですから。


私が1年で、バスケット部に入ったとき、先輩たちは「どれどれ君はどんなシュートを打つのかな?」と言って、私にシュートをさせようとしました。私が0度から、きれいなジャンプシュートを放つと、「ホー、なかなかやるじゃん」という反応でした。しかし、ややなめた反応です。この時点では、それが脅威に感じる日がくることを、先輩たちはまだ知りません。

ちょっと変わった人がいました。その人はびっこを引きながらプレーをしていました。
先輩たちの中では、れっきとしたレギュラーですが、生まれつきなのか、片足が長さが違うのです。
だから、走り方もとても大変そうなのですが、プレーはできるのです。私はあまりそのことに触れてはならないのかなと思って、避けましたが、あのような人でも極普通にバスケットをしていることに感動しました。

バスケットの練習については、特にお話することはありません。
大した練習もしないで試合に行ったような気がします。

一番覚えているのは、私が初めて試合に出たときのことです。
我々1年は、レギュラーなどとは程遠く、先輩たちの試合を見ているだけのような存在でしたが、
あるとき、先輩たちが5ファールで退場してしまい、1年生が出なければならない状況になりました。
その時、なぜか私が指名されました。
だから、練習を見ていて、1年で一番うまいのは菅野だと先輩たちが見ていてくれたのでしょうか。
試合に出ろと命じたのは先生ですから、先生は先輩たちに聞いていたのだと思います。

相手のチームは、強いチームで、先輩たちは今まで勝ったことがなく、負けるのが当たり前の感覚で臨んでいたようです。

私はそんなことは、全く知りません。出てすぐ、45度でパスをもらいました。すると、相手チームは私に付いていません。リングからかなり離れていたので、まさかシュートを打たないだろうと油断していたのだと思います。そこで、私はパスをもらった瞬間にすかさず打ってしまいました。

みんなアッと言ったと思います。

おいおい、試合に出たことがないやつが、いきなりシュートを打つなよというのが、味方の反応です。
相手チームは、そんな遠いところからシュートを打つのかよと思ったでしょう。今で言えば3ポイントシュートかもしれません。
それが、見事に入ってしまいました。

これは、敵も味方も驚きました。
入った途端に、みんながびっくりしている様子がわかりました。

しかし、打った私は何が起こったのか、別にいつものシュートを打っただけなのに、どうして?と思いました。実は、シュートというのは、入らなければ相手のボールになる可能性が高いのです。だから、ここぞという大事な場面では、なるべく確実なシュートになるように、工夫してパスを回して、相手をくずしてからうつように持っていくべきなのです。ロングシュートは入る確率は低くなります。それだけリスクのあるシュートなのです。それを平然と打つものだから、打った瞬間は、あのやろうばかやるんじゃねえという感じだったのでしょう。

それが、入ってしまい、しかもさも当然のような顔をしている私を見て、みんながあっけにとられていました。その後、私のシュートで勢いに乗ったのか、先輩たちも勢い付き、いつもなら入らないようなシュートが入ってしまったりしました。そして、全く勝てなかった相手を負かしてしまったのです。

その日の帰りは、先輩たちは大喜びで、私のシュートが語り草になりました。
ある先輩は、「菅野のやろう、あんなところで、平気でシュート打つんだもんな、俺は驚いちゃったよ」と笑いながら言いました。「しかも、当たり前の顔してんだかんな」と。

「もう、今日でおしまいのはずが、明日も来ることになっちゃったよ」「俺なんか、明日の予定をキャンセルしなきゃならねえや」と。嬉しそうに言っていました。

つづく











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代の思い出 2

2013-04-17 | 思い出
高校時代のことを書こうと思ったら、本庄高校を選んだ理由を書かなければと思って、成績の話になりました。

私は、成績で選んだことになりますね。

ただ、いくらかですが、自分は美術系の大学に行きたいという希望も持っていました。
そこには、古川先生がいたのです。本庄高校へ行けば、古川先生に教えていただける。そうすれば美大に行くには
都合がいい。という判断です。なかなかの考えですね。

しかし、入学の時点では、そこまで考えていたわけではありません。
その先の進路は、高校2年生の時に選びました。

私は器用貧乏という言葉が当て嵌まります。
成績はオール5に近かったといいましたが、しかし、これという秀でたものはありませんでした。
もし、順位をつけたら体育と美術でしょうか。

友達は、私の数学のセンスがいいので、「菅野は数学へ行くのかと思った」といいました。
その友達というのは、理科大の数学科へ現役合格をした友達です。
中学時代に同じバスケット部にいたH君です。
トップでパスを回す司令塔のような役割ですが、サブメンバーでした。
しかし、彼は高校の教員になってから、バスケットの顧問になり、県でもベスト4まで持って行ったすばらしい監督です。
我々の仲間で、バスケットへの貢献は一番の人です。
今は、高校の校長をしています。

だから、自分の高校の後の進路は、体育か美術か数学ということだったでしょうか。
しかし、まだ入学の時点では、決めていませんでした。
もし、本庄高校がバスケットが強かったら、私は体育の先生を選んでいたかもしれません。

ここからは、高校時代のバスケットの経験を書きたいと思います。

入学式の日、学校へ入っていく道を歩いていたら、ブロック塀のところに、見たことがある人がいました。
それは、1学年上の本庄西中のキャプテンをしていたS先輩でした。
なぜ、その人がそこにいたのかは、わかりませんが、見たことがある人だったので、挨拶をしたのを覚えています。
その挨拶が、私は「こんにちは」ではなく、「オッス」だったような気がします。
後で考えたら、冷や汗ものの挨拶でした。

というのは、その人は本庄高校でもバスケット部のキャプテンをしていたからです。
その人の中学時代というのは、バスケットの思い出でも書いたように、夏の県大会で優勝したのです。
予選では、我が児玉中と前半はいい勝負をしたくらいのそれほど大したことのないチームに思われましたが、
10人の選手が誰が出ても力が落ちないすごいチームを作り上げました。
私は自分のチームもそうなればいいなと思っていたのです。

そのチームのキャプテンですから、一番すごい人なんですよね。
それを、私は知っていながら、しかし、S先輩は私をよく知らないだろうと思って、調子づいてふざけた挨拶をしてしまいました。

そうしたら、後でわかったことですが、その人の父親が麓原会の会員で、私の父を兄貴と読んでいるくらい親しい人でした。
自分にとっては、バスケットの先輩で、父親同士が同じ絵の会の仲間だったわけです。

つづく






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃木のTさん 

2013-04-17 | 通信指導
栃木のTさんの水彩画です。

私は、小さい絵をたくさん描いて、その中で構図がいいものを大きい作品にするのがいいかなと思っていますが、
栃木のTさんがいまやっていることがまさにそれです。

最近何点か、10号の水彩を描いています。これもその一つです。



まだ、描き始めですが、こんなのも大きい絵にできるでしょうかと送ってきました。

これはデッサン会の人が取り組んでいるテーマですが、けっこういろんなところにあるようですね。

この段階をみると、また背景を真っ暗にして、現代絵画の要素を加えたら一昨年の絵の連作にもなるかなと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする