私が高校1年の年は、1970年です。
例の大阪万博の年でした。岡本太郎の太陽の塔が思い出されますね。
それと、三波春夫さんの「1970年のこんにちは」という歌。
なぜ、そんなことを覚えているかというと、宿命のライバルのNくんです。
私は、夏休みにN君の家のアルバイトをしました。
たった一週間ほどでしたが、いろいろなことがありました。
そこには、おじさんという人がいて、私とNくんはそのおじさんの指導で、
一緒に働きました。私がアルバイトをしたというより、Nくんがやるのをつきあったという感じでした。
そのときに、そのおじさんが、車で大阪まで行くというのです。
万国博覧会を見るために車で行くと言っていました。
私は、一緒に連れて行ってもらえるような気になって、行けたらみんなに自慢できていいなと思いました。
しかし、結局、そうではなかったらしく、私とは関係なく行ってきたようです。
Nくんが、後で、行ってきたと話していたように思います。
そのアルバイトというのは、水道屋の仕事です。ほとんどが穴掘りでした。
しっかり覚えているのは、Nくんの家の隣にある本屋の水洗トイレの浄化槽の穴でした。
これは、N君と二人で掘りましたが、人間の背の高さくらいの深さです。結構大変でした。
このアルバイトでは、後で思い出しても、ぞっとする体験があります。
穴掘りの機械のようなものがあり、そのおじさんがエンジンをかけようとしたとき、
私は、それに気づかず、機械を触ろうとしていました。おじさんが気が付いたので、良かったのですが、
もし、気が付かなければ、私の指は飛ばされているところでした。
思い出すと、ゾーッとします。
もし、あの時、指なり手なりを落としていたら、私の人生はどうなっていただろうかと思うのです。
その後のバスケット人生はもちろん、美術部に入って絵を描くこともなく、もちろん埼大の美術に進むこともなく、本庄第一の美術部はないのです。そうなると、昨日も学校へ行って話してきましたが、もし私がこうでなかったら、君たちは出会っていないよと話しました。
たった一つのことですが、私だけでなく、多くの人のその後の人生が違うのです。
300人以上の県展入選がないのです、その部員全てがこの本庄第一へ来ていないかもしれません。
そのおじさんという人は、とても親切な人で、年齢もわれわれとそれほどは離れていなかったのでしょう。
気さくにいろいろ教えてくれる人でした。
付き合っていくうちに、いろいろなことを話すようになり、私が将棋をやるということを知ると、おじさんも大好きなんだということで、仕事が終わってから指しました。
アルバイトが終わると、汗をかくので、私はお風呂に入らせてもらい、そのあとで、バスの時間までやりました。友達の家でお風呂に入らせてもらったという経験は初めてのことでした。
将棋もやりだすと、私が結構強いので、おじさんもどんどん本気になっていき、決着がつかないと、「バスの時間なんかいい、俺が家まで送っていくから」と、勝負かつくまでやりました。
そのときの勝敗は覚えていないのですが、私の方が強かったような気がします。
それで、もう1回、もう1回とやったような。
また、私が絵がうまいということをN君が知って、両親に話したのでしょう。お二人とも絵が好きで、私の絵がほしいということになりました。それで、10号の絵を二枚プレゼントしました。そうしたら5000円くらいいただいた記憶があります。もしかしたら、もっと多かったかなと思いますが、きちんと覚えていません。
その後、私は美術部に入ったり、美術の道を歩み始めますが、その後もずっと、私の絵に注目してくれて、今でも時々私の入っている麓原会の展覧会に来てくれます。Nくんとは、その後の人生でほとんど付き合いがないのですが、やはり両親と同じように絵を見てくれています。
これが高校1年の夏休みの頃のNくんとその家族との思い出です。
例の大阪万博の年でした。岡本太郎の太陽の塔が思い出されますね。
それと、三波春夫さんの「1970年のこんにちは」という歌。
なぜ、そんなことを覚えているかというと、宿命のライバルのNくんです。
私は、夏休みにN君の家のアルバイトをしました。
たった一週間ほどでしたが、いろいろなことがありました。
そこには、おじさんという人がいて、私とNくんはそのおじさんの指導で、
一緒に働きました。私がアルバイトをしたというより、Nくんがやるのをつきあったという感じでした。
そのときに、そのおじさんが、車で大阪まで行くというのです。
万国博覧会を見るために車で行くと言っていました。
私は、一緒に連れて行ってもらえるような気になって、行けたらみんなに自慢できていいなと思いました。
しかし、結局、そうではなかったらしく、私とは関係なく行ってきたようです。
Nくんが、後で、行ってきたと話していたように思います。
そのアルバイトというのは、水道屋の仕事です。ほとんどが穴掘りでした。
しっかり覚えているのは、Nくんの家の隣にある本屋の水洗トイレの浄化槽の穴でした。
これは、N君と二人で掘りましたが、人間の背の高さくらいの深さです。結構大変でした。
このアルバイトでは、後で思い出しても、ぞっとする体験があります。
穴掘りの機械のようなものがあり、そのおじさんがエンジンをかけようとしたとき、
私は、それに気づかず、機械を触ろうとしていました。おじさんが気が付いたので、良かったのですが、
もし、気が付かなければ、私の指は飛ばされているところでした。
思い出すと、ゾーッとします。
もし、あの時、指なり手なりを落としていたら、私の人生はどうなっていただろうかと思うのです。
その後のバスケット人生はもちろん、美術部に入って絵を描くこともなく、もちろん埼大の美術に進むこともなく、本庄第一の美術部はないのです。そうなると、昨日も学校へ行って話してきましたが、もし私がこうでなかったら、君たちは出会っていないよと話しました。
たった一つのことですが、私だけでなく、多くの人のその後の人生が違うのです。
300人以上の県展入選がないのです、その部員全てがこの本庄第一へ来ていないかもしれません。
そのおじさんという人は、とても親切な人で、年齢もわれわれとそれほどは離れていなかったのでしょう。
気さくにいろいろ教えてくれる人でした。
付き合っていくうちに、いろいろなことを話すようになり、私が将棋をやるということを知ると、おじさんも大好きなんだということで、仕事が終わってから指しました。
アルバイトが終わると、汗をかくので、私はお風呂に入らせてもらい、そのあとで、バスの時間までやりました。友達の家でお風呂に入らせてもらったという経験は初めてのことでした。
将棋もやりだすと、私が結構強いので、おじさんもどんどん本気になっていき、決着がつかないと、「バスの時間なんかいい、俺が家まで送っていくから」と、勝負かつくまでやりました。
そのときの勝敗は覚えていないのですが、私の方が強かったような気がします。
それで、もう1回、もう1回とやったような。
また、私が絵がうまいということをN君が知って、両親に話したのでしょう。お二人とも絵が好きで、私の絵がほしいということになりました。それで、10号の絵を二枚プレゼントしました。そうしたら5000円くらいいただいた記憶があります。もしかしたら、もっと多かったかなと思いますが、きちんと覚えていません。
その後、私は美術部に入ったり、美術の道を歩み始めますが、その後もずっと、私の絵に注目してくれて、今でも時々私の入っている麓原会の展覧会に来てくれます。Nくんとは、その後の人生でほとんど付き合いがないのですが、やはり両親と同じように絵を見てくれています。
これが高校1年の夏休みの頃のNくんとその家族との思い出です。