知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ナーン県ノンブワ寺院の和尚と行く循環型社会

2024-02-14 17:14:06 | ナーン
ということで、4日間のお伴をすることになった。

そのうちの後半、2月12日(日)13日(月)のことである。

13日のことである。
宮津市上世屋を訪れた。現地に着いたのは10時30分をまわっていた。河田さんは、私が尊敬する方を紹介したい、ということで、まず集落の一番上にある大江歩さん(推定35歳)宅に向かった。

古民家なので二階建てプラス「たか」があって居間などは吹き抜けになっている。柱や横板がすすけて黒い。そうだマキを下で焚くことで煙は程よく天井に充満する。このシステムが木を強くし百年単位に長持ちさせるのである。


この古民家で大江さんはミツマタ、コウゾなどを使って和紙を作っている。出来上がったのもは電球の傘や、入り口の暖簾、古民家の壁に使われている。つまり紙はその用途をどんどんとアート系に使われいることが分かる。単なるものを包んだり障子に使ったりする紙の役割から、現在の芸術作品にまで進化していることが分かる。紙でできた服やカバン、帽子まであるのだ。


そしてもっと驚くことは、そうした製品を顧客が注文してくる、ということである。大江さんは言われたものを自分の紙で製作するのである。製作所の名前は「いとをかし」そして自称和紙クリエーター。大津出身の大江さんはこの上世屋へ来てもう十年以上になるという。結婚されてお子さんもあるようで、麓の小学校へ通っている。紙になるミツマタやコウゾは自分で苗から育ってておられるらしい。

その土地の土で育て、育った木の皮を剥いで、黒皮を捲り、煮て、干して、叩いて、圧縮する、そして干して見事な和紙を創り出す。ここに循環型の持続可能な生き方、考え方が伝えられていく。アートとは土に根ざして生きることか?


二人目は、上世屋の土地、人々に魅せられて移住してきた農夫の小山愛生さんである。11世帯23人が暮らすここでは農家は3軒だそうだ。そして3分の2が移住者だそうだ。ここに移住したきっかけはここのおばあちゃん達の知恵に惚れこんだという。長い伝統がまだ生かされていることに「かっこういい」と感じたことだという。

小山さんは元はk新聞の新聞記者で宮津支局に勤務の頃はこの世屋も取材範囲でちょこちょこ来られていたようだ。京都へ転勤された後もこの地が忘れられずに、ついには生活の基盤をここに移されたのだ。

春、夏、秋と米を中心とした農業をし、冬は狩猟で生計を立てている。
上世屋の山や田んぼの景色も素晴らしい、そこに住むおばあちゃんたちの長い伝統の中から引き継いできた知恵に「かっこうよさ」に轢かれたのだそうである。稲木を組んで稲を干す。


土地土地に合った有機肥料の調合をする。同じ田んぼでも年によって土質は変化する。稲木が倒れるとみじめである。けれども村人が黙って助けてくれる。稲は刈るよりも刈った後を運ぶのが大変である。(個人的にはタイの農村で鎌で刈って右手の平で握ること自体とてもしんどかった経験があるが)。小山さんは現在、獣肉の販売にも力を入れておられる。安定した生計を図っておられる最中であろう。もちろんご結婚もされていて奥さんにも会った。お子さんは20分ほど下った小学校に通う。


先月降った雪が谷間に残る中で真っ青の空。世屋は極めて不思議な所だ。若者を引き寄せ、引き留めて、彼らに暮らし方の原点を教えながら、先駆的な人類のあり方を予言して実践する空間であった。不思議な魅力を感じ、熱いエネルギーをいっぱいいただきながら世屋高原を後にした。


三人目は、麓の天の橋立の笠松地域に藤織工房を営む坂根博子 さんである。
阿蘇海の浜に直に建てられた工房は、その桟橋といい、波の輝きといいタイのラヨーンの漁村の趣がある。海と暮らしを直結する暮らしは素晴らしい。


さて、坂根さんは丹後藤織保存会の会長もお努めで、説明、解説、脱線話、実にトメドなく流れ出てくる。聞くものを飽きさせない。丹後のこの地は、昔から桑はできない、綿もできない、冬場にする夜なべ仕事は、山で採ってきた藤の木から繊維を採って布を織る事だったそうだ。


坂根さんは、藤織についてはどこからでもお話ができて面白い。藤を山で採って来るお話し。大木にまつわりつく藤をバサッと切ると、木が一瞬、バッと膨れるという。圧迫されていたからだ。それを切って持ち帰る。フジキリーフジヘギーアクダキーフジコキーノシイレーフジウミーヨコカケーワクドリーヘバターハタニオワセルーハタオリ専門用語はきっと伝統的なおばあちゃんが使っていたものだろう。すべて世屋のおばあちゃんたちが営々と営んできた工程をそのまま模写し実践されている。

過疎化と高齢化によって伝統技術が危ぶまれ昭和60年頃から講習会が開かれ有志によって「丹後藤織伝統保存会」は発足したそうである。平成3年には京都府の無形民俗文化財にも指定されたそうです。

山に残る、ある意味で他の木を枯らしてしまう邪魔者扱いの藤かずらを切り取り、自然のおすおすそ分けとして村人たちが持ち帰り、その皮を剥ぎ、炊き、米ぬかの湯につけ竿に干す、そして機織り機にかける昔からの農村の生み出した、果敢に人間が自然と共存して来た知恵が凝縮されているのではないだろうか?工房には、注文を受けた布、絨毯、カバン、帽子などが陳列されていた。



4人目の登場は、案内をしてくれた河田恵美さん。SAPOというハンドメイドの百%自然の石鹸作りである。彼女はベトナムで10年ほど暮らしていて、自分の手がよく荒れたので、手にやさしい石鹸を自分で作りたい、という思いで帰国後も米ぬかや酒のカスなどで石鹸を作っている。肌がすべすべになったとマスクを外して顔を見せてくれた。それかどうかわからないが彼女はすべすべ輝いていた。石鹸のせいばかりではないだろうと思った。彼女の哲学は「自然に帰ろう」である。

最近は宮津湾の海の底の泥を使って石鹸を作っているようだ。その泥はヘドロではなく、粒子の細かい火山灰で海の底から湧く湧水と相まって極めて綺麗な石鹸には素晴らしい材質らしい。よどみのない説明に説得力があり、市販の石鹸や洗剤は使いたくなくなるような気になった。河田さんは私が高校の教師だった頃の教え子である。最近、京都府から女性起業家賞とやらを受賞されたそうだ。

宮津は天の橋立だけの観光の街ではなく、かっこう良く輝く、循環型社会の先兵となって活気のある未来への可能性を感じさせる街である、と確信した。

たくましかった河田恵美さんに感謝したい!

田舎の先進的な発想や警鐘から文明を見直すことがこれからは必要であろう!
木村滋世


コンシン和尚の手紙
ขอบคุณทุกท่านที่ต้อนรับด้วยมิตรภาพและมอบประสบการณ์คือการเรียนรู้..
ประสบการณ์ที่ได้พบผู้คนที่ได้เจอ คือเทวทูตแห่งสวรรค์ ที่มาบอกสัจจะธรรม ให้ได้เห็นทางเลือกของชีวิตในการดำเนินชีวิตไปสู่ความสุขที่แท้จริง…
…เจ้าชายสิทธัตถะออกไปเที่ยวชมนอกเมืองได้พบเทวทูต คือ เห็นคนแก่ คนเจ็บ คนตาย และสมณะ ท่านจึงได้เลือกทางการดำเนินชีวิตไปสู่ความเป็นสมณะ คือผู้สงบ เป็นพุทธะสามารถสอนให้ผู้อื่นให้เป็นสมณะ เป็นพุทธะ คือ ผู้รู้ ผู้ตื่น ผู้เบิกบาน..ด้วยกัน.
…ขอขอบคุณมากๆนะครับ..訳)友情をもって歓迎してくれてありがとう、経験を与えることは学習です..出会った人との出会いは、人生を真の幸福に導くために、人生の選択肢を見に真実を伝えに来る天国の天使です...... シッタッタ王子は町の外に観光に出かけ、天使たちに会いました。 彼は古い、病気、死んで、謙虚さを見た。 だから彼は自分の人生を謙虚に導くことを選んだ。 それは平和だ。 ブッダは他人に謙虚さを教えることができる。 ブッダは知ること、目覚め、喜びである.. 一緒に。

口コミ

河田さん、昨日は、濃厚な一日を紹介していただきありがとうございました。それぞれの人が果敢に生きておられることに、輝いておられることに深い感動を覚えました。とりあえず御礼を申し上げます。

昨日はお疲れさまでした!ご紹介したのは私が大好きで尊敬している人たちばかりです。人生は人のご縁で成り立っていて、導いてくれる人によって自分の行動が決まるのではないかと思っています。
昨日のみなさんとのご縁もしかり、タイヘ行きたくなりました。また宮津へいらしてください!
機会があれば宮津湾の泥を分けていただいているカリスマ漁師の本藤さんにも会っていただきたいです。完全予約制で漁師の日替わりコース料理を自宅で出されています。元海洋センターの研究者なので、魚や貝を知り尽くし日本一新鮮で美味しい(食べたことのない)宮津の魚介類が食べられます。

日本の原風景が残る。宮津市上世屋。まだ雪が残る里で紙すき、有機栽培の米🌾、藤織を続けるかっこよい人たちの情熱にふれた1日でした。
... どうもありがとう..

昨夜は久美浜の美味しいお刺身、意外な牡蠣、こだわりポン酢で頂くヘルシー鍋をつつきながら、地域の過疎化、呼び掛けても人が集まらない、伝統行事が受け継がれない、タイと日本の仏教などの話しをする。
 食後は、やおら音楽が始まる。ご近所の方が「カントリーロード」。わたしは「アジアンピープル」を、馬場さんにライアーでセッションして頂いた後、タイの「満月🌕️」をタイの楽器スンでセッションして頂きながら、木村さんにタイ語で、わたしは日本語で歌う🎵後に浅川マキの「あなたなしで」も。
 この後、わたしも持っている中国の楊琴にそっくりなタイの楽器や、二胡に似た楽器などで夜🌃は更けて行ったのでした。
 翌朝は久美浜湾の素晴らしい日の出🌄


3日間本当にお世話になりました。コンシンにとってだけでなく、私にとっても、とても貴重な体験でした。運転もお疲れ様でした。また、タイのこと、地域のことなど、お話したいと思います。今、彼と大吉山に来ています。そして、宇治をぶらぶらして、お土産なと物色する予定です。

人生行き詰まった時は必ず何かご縁があり、大丈夫、世界はこんなに広く狭いんだよ、と導いてくれる。
高校時代の英会話クラブの顧問だった久美浜出身の木村先生は、40年以上日本タイ国際交流協会を運営されており、高校卒業後、私をタイのイサーンという農村地域に派遣してくださいました。初めての東南アジア、しかも外国人は1人もいない、言葉もあまり通じない、現地の学校の校長先生の家に滞在となかなかスリル満点の貴重な経験をさせていただきました。
今でもさまざまな人を繋げてくださいます。
昨日はタイの僧侶学校で有機栽培、環境保護を教える先生、大学の教授や教育関係の方々が宮津へ。ダナンで知り合った方の同級生もいらして、びっくり不思議なご縁だなと思いました。
尊敬する方たちにご協力いただき、上世屋と藤織りを見ていただきました。かっこいい生き方をされている人の話を聞き、深く感動されていました。お忙しい中、受け入れてくださったみなさんに感謝。
気功をしている方は古民具に大きな気を感じて足が震えたと。
僧侶からいただいたブレスレットは、人間は臓器にある32の魂(khwan)によって生命が維持されていて、それが抜けて病気にならないよう食い止めるのだそう。
厳しい山で暮らしても自然と調和する生き方をしたいという強い想いは感動を、魂を呼びさます。すべては生きるための作業。
人間は健康に生きていればそれでいいんだ。
幸せは、自分で人生を選択すること。幸せな人にたくさん会って、自分の選択をし、自分が与えられるものを人に与える。自然の循環、幸せの循環。
人生は旅、旅とはそういうものかもしれない。

坂根博子
こちらこそ、素敵なご縁に感謝です。
 沢山の方々キチンとに藤織りの歴史 技術を知ってもらえる事が嬉しい☺️です。
 ありがとうございました。

おはようございます。二日間大変お世話になりました❤️        長岡京で素晴らしい藤織りを見てから上世屋を訪ねるのが願いでしたが、思いがけず一日目のお寺も素晴らしく、夜🌃の交流会では木村さんが故郷のつながりを大切にしておられること素晴らしいですね❤️      昨日の上世屋訪問、特にわたしにとっては憧れの藤織り訪問は感動でした。         ご案内下さった河田恵美さんはベトナム時代に、わたしを一週間のダナンライブに呼んでくれた旧友と親しくしておられたのも、奇遇でした❤️  いずれも友人限定ですが、わたしのFBにアップしています。


河田さんのお知り合いの日替わりコース料理も気になりますね❤️また機会があれば再訪したいです。         別の友人が河田さんのお宅の近くでスペースを運営しているので、上手く行けばそこでのライブとかけて行けるかも?馬場さんとも共演できるといいですが、お忙しいので調製が難しいかも?


のこさんのヤポネ島は近いので、また来られることがあればお声かけください!ゲノム編集のことや映画上映にたまに行かせてもらってます。








ムクダハンで出会った農夫

2024-01-13 12:27:35 | ムクダハン
 令和5年(2023)の5月に、一般のツアーの方々と別れて一人で、ウボンからムクダハンに行きました。これまでもそうであったように、ムクダハンにはどういう人が何を考えて暮らしているのか少しスケッチして見たかったわけです。

 まずは、ムクダハンで農業をしている人と会ってみたいと思い立ち、ムクダハンについてベンツ君に会うなり、「どこか農家へ連れて行ってくれ!」ということで観光のお寺周りを切り上げて田んぼに向かうことに。

 ベンツ君と気楽に言うがムクダ高校の日本語の先生である。今日が初対面であるがオンラインでは顔を会わせていた。気さくで笑いの絶えない青年である。本来は彼の学校を見学したいところだが、以前からムクダハンという土地で暮らす人と話がしてみたかったのである。

 彼の車で市内からやや南の方へ車を走らせた。ベンツ君であるが、トヨタの車である。国道離れて、すぐに森の中の道に入る。南に走っている。やや丘陵地帯の起伏があるところで畑もあれば田圃もある。民家や小さな雑貨屋さんも見える。さらに20分ほど走って道路がやや細くなってまさしく周りは林や畑の田園地帯だ。

 どこか野良仕事をしていてあまりお邪魔にならない農夫を探す。「いた!あそこへインタビューに行こう!」と運転手兼通訳のベンツ君に頼む。道からそれて50メートルほど左奥の竹やぶの周辺で農作業している夫婦がいる。

 ここぞとばかりに、つかつかっと近寄ってみる。ベンツ君が先に行き、日本人が来ている、農村の話を聞きたいといった交渉してみる。作業の邪魔をしてはいけない。ベンツ君は「オーケー」のサインをして手招きしてくれる。私はタブレット、豆ノートと筆記具を取り出しながら近寄っていく。

 気さくそうな農夫である。竹藪を一つの田小屋のように使っている。藪の中で女性がもえき(竹?)を集めて束ねている。奥さんだそうだ。
夫、マナット(シーサップチャナート)50歳、妻 スラダー45歳

 住んでいるところは近くのムアン内ロンエン村パーポーンポーンという村である。毎日、野良仕事に来る。朝、7時に出て夜6時頃帰る。推測だがこの辺りの牛飼いは牛に時間を合わせているようだ。奥さんともどもこの村で生まれ育つ。自分の親も同居である。

 今は農閑期であと2か月後に米を植える。水田は30ライ持っている。
3ヶ月で稲刈りである。だいたい毎日7時頃から夕方6時まで野良仕事をしている。今日の仕事は、妻は、家で使うまきを切って束ねる作業、自分は田んぼの整地をする。


 子どもは娘3人いる。上が27才で家事手伝い、真ん中が22才、工場で働いていたが現在は失業中、下が18才、高校を卒業して家にいる。親としては家にいずに、どこかの工場で働くことを希望している。

 お米以外に畑では甘藷(芋)を作っている。いろんな農家から集めて農業センターへ持って行く。マムアンも作っている。ユーカリ、ゴムもやっている。牛も飼っている。この地帯の典型のようだ。やはり日照りが大変である。ソンクランからずっと雨が降っていない、とマナットさんは言う。

また、会いましょう!というと、「田植えが終わったら暇になる。

一緒に飲みましょう!」というムクダハンの親戚となった。いつか行けるかな?


派遣事業報告会の挨拶

2024-01-13 06:18:13 | ナーン
私は過去、数十年間、日本の子ども達をタイへ連れて行きました。とてもたくさんの数です。

なぜ、連れて行ったのか?

それは子ども達が変わるからです。大きく成長するからです。
子ども達は、とても豊かで敏感な感性を持っています。

例えば、友だちができるのかしら、言葉が通じるのかしら、と日本の現実から判断して、タイにまいります。結論から申し上げますと、友だちから逃げたいほど多くの友達ができます。言葉よりも、笑顔や行動がすべてのコミュニケーションだと知ります。


もちろん、そうでない子もいます。でも極めて少ないです。
また、タイへ連れて行くことのみで大きく成長するわけではありません。他にもいろんな方法があるでしょう。

でも、日本で40年近く学校で教師をしてた私としては、<タイで成長させたい>という願望が捨てきれません。

なぜか、タイでは、日本ほど時間に追われることなく、ある意味で時間を楽しんでいる、時間をとても有効に使っている、そんな姿を垣間見る、ことも大切だと思います。

また、伝統舞踊を嗜んだり大切にしていること、つまり伝統を生かしていること、仏に手をあわせること、おじいちゃんおばちゃんを、家族を大切にしていること、こうしたことは空気のように当たり前のこととして漂っている。学校で教えて出来るものではありません。相手を気遣ったり、もてなしを行動に移す姿を日本の若者はタイで目の当たりにするからです。


今回の旅行のねらいは、まさにそこにあります。

今日は彼らが体験したこと、見聞きしたことを、彼らの言葉で発表してくれるものと期待しています。もちろん、こうした宝物は、言葉で言い尽くせることはわずかだと思いますし、今、どうこう、というよりも、今後、彼らが人生を生きていく中で、ふつふつと思いだされ、生きる上での指針になっておくものだろうと思います。


幸いにして、今回はスタッフが3人随行してくれました。期待している者は私だけでない、と証明されたのではないか、とひそかに豪語しております。

ありがとうございました。2024 1/20  


ソンブンのこと

2024-01-12 20:25:28 | プラトムタニー



「タイをなぜ歩くのか}

2024-01-12 11:50:54 | 旅行
昭和55年9月30日発行(1980)
「タイ」のこと (英語科)
―タイ語雑感

「英語さえやっておけばなんとかなる」といって英語会話熱は日本でも盛んである。なる程英語は 国際語になってしまったから世界の人々と語らう場合の最低条件あろう。また進んだ国々の文化 知識を吸収するのにも英語が読めることが必須条件であろう。

ところが面白い話を聞いたことがある。中東のある国に毎年数名の駐在員を送っているある企業の 人事担当の人の話である。毎年英語が堪能な社員を選んでその国に送っていたのであるがある年にち ょっとした事情でタイ語を修めた社員を一名その駐在員に含めたのである。その一名の加入で現地で の経営がそれ以前よりも随分うまくいったという。もちろんその社員の個人的資質にもよろうが、そ れ以後人事担当者は何故かタイ語 に精通した駐在員を毎年加えているそうである。アラビア語とタイ語の関連性は 全くないと言っていい。タイ語より英語の方が会話は通じるのは自明の理である。であるのになぜ現地の人々とスムーズに意思疎通ができて企業にとって成功するのあろうか。

私はタイ語に固執するつもりはない。インドネシア語でもクメール語でも朝鮮語でもいい。すべて世界的に見ればマイノリテ な言語である。そうしたマイノリティの言語を知る事は今日的に大きな意味があるような気がするのである。

そこにはお互いの意思が記号的に通じる以上にある文化を真摯に 理解しようとする態度が体得され ているのではなかろうか。マイノリティ言語圏はほとんどが開発途上国 か中進国である。物質文明などの点からみれば確かに日本より劣っている。しかしそんな国の言語をやっても「益にならない」あるい は「儲からない」と打算的見地立った上での言語観はおかしい。

自分の国の文化が絶対的に優れているんだという認識は正しくない。また欧米さえ知っておれば事 足りるという認識も今日的状況の「中では正しくない。物質文明、科学的知識の面から見れば西欧が断然すぐれていようが、事前の中で自然の恵みをうまくコントロールし、自然と人間がほどよく暮らしていける知恵を持った文明という観点から見れば西欧が一番とは言い切れない。

紙面の都合ではなかなか具体例はあげられないが、私はタイ農村を歩く中で、そうした知恵という ものを数多く見てきた。文化とは 相対的な価値観で見なければならないということを痛感している。その風土にに適したその国での合理的な文化がしっかりと形成されている。

話を元に戻そう。「英語さえやおけば」という発想でいろん国に接する事は英米の精神文化やその価値観のみで世界を知ろうとする態度で、本当のその国の人々の襞まで知ることは不可能である。英語で割り切れない所に本当の人々の気持が散らばっている。そうした心を切りてる武器としてその発想はマイナスに働くことがある。その点を留意しておく必要がある。

もちろん英語に精通する意味は決定的に大きい。また、英語圏を理解する場合は特にそうである。世界の人々に接する最低条件であることも事実だ。しかしあくまでその国の言語はその国の精神をバックボ ーンとしている事も十分知っておく必要がある。さらに英語や、過去においては中国語も世界的にみれば巨大優位言語であり、いわゆる我々にとっては「上ばかり」見ている外国語の吸収様態でである。
自分より劣っていると見なす言語は全く無視する傾向が日本にはあるのである。本来の外国語得の 意味はこの様な様態にばかりあるはずはないのである。

この事は生き方、考え方の問題として私に大きくのしかかっているのです。だから自分が自分を間 う問題として私はタイ語を含めてタイを調査しているのです。