知らないタイを歩いてみたい!

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日本の高校生を三日間、ウトラデット・ダルニー学校へ連れて行く。②

2024-01-12 06:51:55 | ウタラデット
二日目月曜日
テウ先生に7時過ぎにホテルへ迎えに来ていただく。ホテルはドゥ。タラ。インという。後ろのドアをあけると、一面にナン川がやや忙しく左に流れているのが見える。東映映画村のようなうす暗い、侍がいてもおかしくない道路事情。学校へ向かうバイクが目立つ。今日は制服はサンタの服装でもいいそうだ。メリークリスマスの挨拶や服装や。何人かに「メリーキスマス」といいながら飴玉をもらう。また、腕に自分で家で作ったという白い紐を巻いてくれる生徒も。うれしいね。
講堂で待機したあと午前8時前に運動場の正面の掲揚台のある晴れ台に。3千人の生徒たちが動いている、座っている、歓声をあげている。校長先生の挨拶「今日は特別のお客様、日本から来てもらった。」との紹介で、一人ずつバナナで作った花をいただく。通訳はテウ先生、ノット先生が。私は「日本タイ教育交流協会の代表です。6人の高校生を連れてきました。協会は日本とタイの青少年の未来の懸け橋作りでやってきました。3日間、日本の文化とタイの文化で交流することを楽しみにしてます。どうぞよろしくお願いします。」と言っておいた。サワディーカップ、私はタイ語が話せません、とタイ語で言って笑いをとる。あとはスタッフの自己紹介や、生徒たちの挨拶に聴衆は歓喜。ワーという雄たけびが沸き起こる。感動感激の瞬間である。終わって講堂へ移動する。


歓迎の式典、上段に校長先生が登壇し、花壇では副校長先生が、解説。終われば校長先生のご挨拶。そして日本人10人と先生方の記念写真。そして、歓迎のタイ舞踊。解説ではアユタヤ時代の日本とタイの親交の証として踊られたものとか。タイ衣装と浴衣姿の生徒たちが10人ほどで踊ってくれた。本当のタイ舞踊をみたければ少し物足らないかもしれない。あと、6つのグループに分かれてろーいかとんの踊りを丁寧に習う。左手右手交互に動かす練習を十分繰り返しラムオンの曲で輪になって右回りに輪を作って踊りだし。私も入るとカメラがずっと追っかける。
やがて我々の番である。リハーサルなしの本番を見せることに。さくらさくらと上を向いて歩こう、日本の高校生はどうも集団で歌うという経験は少ないようだ。これはびっくり。我々は一緒に歌うことはある。彼らはイヤホーンで聞くか、カラオケでも一人でマイクで歌う。こうした合唱のようなことは全く苦手のようだ。仕方ないのでユーチューブで聞くことにしたが、それが今やっている歌詞と違うのだ。まあ、タイの皆様には楽屋裏を見てもらい、ひらかなの練習程度でこの全体発表は終了。次は各個人の日本の文化発表だ。これはなかなか見せてくれるものが多かった。日本の日常生活や高校生活を映像や動画で紹介する。また圧巻は家族の紹介だった。その中で、ペットがいて、夜は自分の家に、朝はおじいちゃんの家にいるという紹介があった。家族のすばらしいありようがあって日本人の私も考えるものがあった。最後は6つに分かれで日本文化の体験交流。着物ゆかた男用女用、お茶、金平糖のお菓子付き、にわかスタッフの書道教室、そろばんみんな輪になってそろばんをやっている。10個くらい持参しての大盛況。そしてドラえもんやトトロのスマホを使った歌や踊りをまあ、それなりにやっているグループ、そして英語を流ちょうに駆使して、音楽に合わせて見事にけん玉をこなす小春さん。生徒たちもワーワーキャーキャーと言って自分でやってみるがうまくいかない、じゅずにできたいずれの場合もギャーキャーの歓声。そのルーティンで時間的に消化不良だったが十分満足できる時間だった。
お昼になり、生徒たちは食堂へ消えていた。先生方は講堂の片隅でゆっくりとガパオや果物をいただいてなごむ。
午後は4時までは数学や日本語の授業に参加する。我々は見学させてもらった。生徒たちはタイの生徒とすっかり同化していた。我々はフライディーとかいう商業施設の横にあるマッサージに2時間、疲れを癒した。
4時半ころから、大きなレストランのムーカタパーティーとなる。3人のタイの生徒が上手な日本語で挨拶をしてくれた。敬語も使えるし起承転結もあるしみごとな日本語であった。だれが教えたのであろうか?そのあと日本人がひとりずつ挨拶をした。私にも順番が回ってきたが協会の招聘事業やスピーチコンテストのことに触れておいた。8時前にホテルへ帰宅。

大きな宝物をいただいたような気がします。
いまはその宝物が何かを十分説明できないけれど、皆さんの笑顔やもてなし、思いやり、のあたたかい心が日本へ帰ってからじわじわと思い出され、いま日本では欠けているところのこころにずしんと教えてくれる素晴らしいこころを豊かなものを得ていく気がします。タイに来なければ得られなかった素晴らしいかけがえのない宝物をいただきました。ありがとうございます。

日本の高校生を三日間、ウトラデット・ダルニー学校へ連れて行く。①

2024-01-11 17:12:55 | ウタラデット
令和5年12月24日(日曜日)
8時10分、飛行機はピサヌ空港へランディング。郊外にあるためか人家も見えず草原に降り立ったよう。タラップから青空を仰ぎながら地上に降りる。暑くもなく寒くもなく、日本のあるのようでもある。荷物をターンテーブルから取って、到着ロビーに行くとウタラデットの先生方が待ち受けておられる。テウ先生、ノット先生である。全員が自己紹介をして、外に出る。タクシー会社がいやに目立つ。スクールバンとノット先生の車に分かれてのどかな120号線を北上すること1時間程度でウタラデットダルニー学校へ到着。乗ったときに感動したこと。ケーキパン、フルーツジュース、ペットボトル、スナック菓子が10人分に用意していただき、やはり女性の先生方の心配りは素晴らしい、と感じ入ったことであった。
9時30分、講堂に案内される。入り口には両側に生徒たちが立ち並び、拍手拍手、日本人側はいよいよ出会いと交流が始まったという緊張、不安、喜びの気持ちが芽生えてくる。講堂は素晴らしい飾りつけで、赤い傘、お城や金閣寺の型紙を切り取ったデコ、正面にはパワポで、タイ語と日本語で「タイと日本の二つの国の文化の絆2023年12月24-26日、ウタラデットダルニー校」と書かれている。
アン先生が相変わらずの臨機応変、柔軟に生徒の表情を大切にしながらタイ語、日本語で進行される。タイ側の先生の紹介、アン先生、ノット先生、テウ先生、メー先生、それに教育実習中のチェンマイ大学からのジップ先生。生徒たちは屋久0人の日本語を専攻する高校生たち。それに講堂入り口では、調理の方が3人、手伝ってくれている。その次は、我々10人が生徒たちの紹介である。アン先生が「一昨年に続いて2回目の日本タイ教育交流協会の皆さんが来てくれてとてもうれしいです。今日と明日と明後日の三日間、日本の高校生と一緒に交流でき、我々ドキドキしてます」と前置きを。「三日間の交流」、そうなんだ!とやけに感動。これまでだったら日曜日の今日だったら、簡単な歓迎の式とホームステイのマッチング、あとは先生方と我々大人で夜の宴会といった生徒同士の日本語学習と交流という形は明らかにネグレクトされたものではなかろうか?素晴らしい、日本人が来たこの素晴らしい機会に最大限に接触時間を長くなるように企画されている。
私が、協会の代表であり、京都から6人の高校生を連れてきたこと、彼らはこの3日間で素晴らしい体験をするであろう、ことを述べました。6人の生徒もタイ語を交えてうまく自己紹介をしています。明日はもっとうまくなるでしょう。
その後は我々においしい焼きめしが供され、水やお茶やコーヒーが生徒たちから供され本当に気楽で楽しい時間を醸し出されました。日本の學校ではここまでは全くやれない。日曜日に全員が参加する、この機会を最大限に活用とされるアン先生の姿勢に感服、感動,感激。
我々が朝食を楽しみ中、整列してら生徒たちの机と椅子は全員の力で6つのグループに分けられ、それぞれが何かを話し合ったり、ネームプレートを書いたりしてがやがやの時間が過ぎる。やがて日本の高校生が一人ずつそのグループになかに加わる。自己紹介が改めて全員でなされる。日本人にはニックネームが創出される。ソム、アンパン、ピーサーイ、ファンカーオ、???いろいろのアイデアでつけられたようだ。この活動が終わると、いよいよ料理の時間、カオマンガイ、カノムソーンナムヤーン、カオパット、ルークチント^トと野菜、センミーガイチーク、パットクラプラーオムークロープはすでに作られてテーブルにコンパクトに用意されておりたいる。ウトラデットの特産料理といわれるミーバンとカオパンパックは料理の女性のアシスタントと生徒のペアで日本語で紹介されるという圧巻である。思わず動画を撮りたくなる。説明が終わり試食。残念なことは先ほど朝食でカオパットを腹いっぱいに喰ったことだ。日本人はそれでもよくいろんなものを食べる、調整ん的なグループと、おなかを抑えて食傷気味で一線から距離を置くものとに分かれる。でも、美味しいものはとてもおいしい。すがすがしい気候や空腹のためにといったレベルではない美味しさだった。全員が好きな食事を手に取って元のグループ席に戻ってまた、会話する。これまた日本の高校生は積極型とやや引き気味型に分かれる。仕方がないことだ。強硬なスケジュール、ディープな異文化体験の数々、正常であり続けることが困難であろう。
おなか一杯になったところで案先生がせれではちょっと運動しましょう!近くにあるピーチャイ像へお参りに行きましょう、ということで班ごとに出発。学校の隣にあるウトラデットに来れば必ずマストなスポットである。ピーチャイはムエタイがとても強く王様の近衛兵の大将にもなったそうである。小さな博物館では、ピーチャイにちなんで作られて博物館へ入る。刀の数々、鉄の最終などの模型品や写真で分かりやすく解説されていた。外に出てアイスクリームをアン先生の買っていただき食べる。近道を抜けて再び学校へ帰ると時間は12時半になっていた。
ホストが迎えに来られるのは3時だと聞いたので、まだ2時間以上はある。突然私は日本の歌の練習をしたい、という衝動にかられ、講堂正面のスクリーンに歌詞をうつしていただき「さくらさくら」と「上を向いて歩こう」をタイの生徒も歌えるように一度日本語を読み合わせて、それから歌って、そしてユーチューブで本物を聞いて耳に少しでも残るように練習をした。いい時間をもらったものだ。そのあとは再びグループに分かれて校内を見て回るトリップに出かけた。
再び講堂に集まることにぼつぼつとホストのお父さんやお母さんおねあいさんが迎えに来てくれた。菅谷さんに日本の生徒とホストと我々と一緒に記念写真を撮ったりした。
木村はホテルを紹介してもらいお土産の整理やマッサージ1時間半、そしてナン川ソイのレストランへ連れて行ってもらい随分食を堪能させていただいた。


東南アジアで考えたこと

2024-01-11 16:59:07 | 旅行
一、『質しい」ところ
私はここ数日東南アジアを旅しているものです。一 人でリックを背負って農村から農村を歩いているものです。時々、なんでこんな ことをしているのだろう? と不思議に思いながら。

一度でも東南アジアに かれた方はその「食しさ」,「不衛生さ」「不能率さ」 強烈に印象に残り「もう、あんなところはいかない!」とお考えになる方が多いでしょう。

私も確かに日本と比べてみるとその通りだと思います。空港に降りれば怪しげ な業者が数多くたかってきて、配車からホテル宿泊から観光地の手配までしつこく迫ってきます。

一歩街路に出れば簡易バスに人が鈴なり。信号が赤で停まれば就学年齢の児童が花を売ったり新聞を売ったり。掘り起こされた建築現場でも幼い少年までも泥だらけになって働いています。
観光巡りと称して運河でもめぐれば「俺のボートは安い!」と腕を引っ張る。運河は褐色に濁っている。その水で顔を洗い、洗濯をし、米をといでいる。

東北タイの方へ行けば、干ばつで米は獲れず、野山の木の芽や虫を食べてるところもあります。ラテライトの赤茶けた土が素足で学校へ向かう児童たちの後から煙のように舞っている。
その児童たちの多くは、読み書き算ができれば小学校の途中であってりも止めて働くのです。どんな勉学の意志があっても。
 ですから、東南アジアの人々は確かに「貧しい」し、生活は「不衛生」なのです。そんな現場からは目をそらしたり、あまり関わりたくない、と考えたくなるのも事実でしょう。
 二、本当に賛しいのか
しかし、と私は言いたいのです。しかし、私は アジアの姿をそうした基準のみでみてあとほったらかしていていいものだろうか と思うのです。結局そうし た日本人のおおかたの認識の仕方が気になるのです。つまり、経済的な見方が我々には肥大化しているのです。お金という尺度で、商人の目だけで世界を見て いくことは文化的、歴史的 人間の財産を切り捨てることにつながるのです。そこ には人間中心のっ座標が当然 ねしまげられるのです。
タイの農家に泊っているとおかみさんか朝早くから起きて食事の用意をしてくれます。子どもたちが近くの市場まで料理の材料を買いに行ってくれます。稲刈りの仕方を周り若者が教えてくれます。夜は村の人たちか 唄をうたってくれます。彼らのだれでもが「楽しいか?」「面白いか?」と聞き返します。

 相手が自分たちの村に来て「本当に楽しんでいてくれるのかを一番気にするのです。そうです!「安逸」であるかどうか、このことが彼等の視座にあるのです。そこには、デレビやマイコンの豊かな物質的な基準を持たない、人間中心の本来の幸せを求めていこうという空気がいっぱいにあるのです。貧しくあっても。
私は東南アジアの高床式農家にいると、日本が寒々とした列島にみえたり、日本人が黄色い西洋人に見えたりするのです。
(山城高校育友会新聞(昭和59年12月20日)




今月は2回目のタイ!

2023-12-05 06:04:13 | ハノイ
初めに
とにかく、コロナあけから、2年目、幾度となく、いろんな理由をつけて、タイを訪れてきたが、文章にまとめて残すような時間も気分もなかなかなかったが、今回は、まったくの一人旅だ。旅人には出会う人々の心が残る。多くの「心地よい」印象をもつことができた旅だったので、振り返ってみたい。

結婚式
一人旅、結婚式が二つ、卒業式参加が1つ。義理を果たしたいための旅であった。となれば、ようし、この歳になっても、普段と変わったコースで行けないものか?願わくば安くあがるような旅にできないか?そんな思いから、数カ月前からチケットを探してみた。結婚式、S先生の長女の晴れの儀。昨年、12月に次女の結婚式がチェンマイであり、参加している。次女は来たが、長女はいけない、とは言えない義理の話。そして、長い付き合いのアユタヤの義理娘の結婚式や10月に口約束をしてしまったバンコクでの卒業式。

出発
友人、知人は19日の結婚式に合せて、大阪~チェンマイの直行便で11月17日に出発済み。私もとにかく19日の結婚式に間に合うようにチェンマイに着かねばならない。同じく17日  15:30関空発でハノイ飛ぶことに。ハノイには19:25着。いくらのチケットなの?24,341円。安い?高い?まずまず?ヴェトジェットである。なにか乗務員のコスチュームややる気も好感が持てる。カウンターは7キロの手荷物無事通過。ところが、チェックインの関空の国際線の列は完全に機能してない程、人が満杯だ!ぐるぐる蛇行状にくねってえらい苦労している。

出発ロビーの恩恵
一旦、出国手続きを終えればあとはボーディングタイムが来るまではうれしい時間だ。とはいえ、セブンイレブンが空いていればの話だが。今回は、通路から並ぶ列も、二十人も満たないほどに空いていた。レジへ行く列に並びながらお土産を掴んだり、お昼の弁当、アルコールを掴んだりしてレジで精算。多少の荷物の重量も気にしない、瓶であっても機内へ持って入れる。現地について知り合いと路地の屋台でお土産と称してこの日本酒や焼酎を飲み交わすこともできる。お土産のお菓子も封を切ってその場で食べ合うこともできる。この30分くらいの出発ロビーでのゆとりは飛び立つものへ小さな至福をもたらしてくれる。

おっとハノイかよ!
ヴェトジェットの機上の旅人となった私は、ビールの一缶で心地よい眠り状態になった。バンコクより1時間以上も短いのだから、その分は楽だ。
5時間そこそこでベトナムの首都ハノイに着いた。以前、トランジットで立ち寄ったことはあるが、ハノイに入国するのははじめてだ!数か月前のホーチンミンと同じ街なのだろうか?あんな街には高齢者の外国人は行くところではない、と判断した。
ふと気づいた。私はチェンマイに行くために、ここに立ち寄ったのだ。ハノイが見たかったのではない。出来れば、チェンマイ行きの便にのるためにこの空港で腰を落ち着けて待つことにしようと考えていたのだ。チェンマイ行きのチケットはなんと8,558円!お得感満点!このことで頭がのぼせていたのだ。時間をないがしろにしていたのだ。つまり、チェンマイ行きハノイ発は翌日の15時20分であることを十分自覚しなかったのだ。ハノイに20時間いる、ということを今、初めて自覚したのだ!そうだ、ハノイと付き合わねばならないのだ。





なぜ、村人はキムラを見ると泣いて迎えるのか?

2023-05-31 02:31:11 | プラトムタニー
長いこと行ってないし、一度、こそっと村を見に行くか?、と好奇心でH氏を誘って、バンコクのホテルからお忍び訪問を企てたのは、2013年10月のとある日だった。
ランシットまでは路線バスに乗り、そこから定期便のロットーに乗った。

運河はクロン12と13との間、というのは40年前から覚えっていた。そして運河の向こう側(右側)には樹木の繁みからイスラムのモスクが見える、それが私の目印だった。運転手や周りの人にも「クロン12と13の間で降ろしてくれ!」と伝えていた。

クロンを3つ目4つ目、8つ目、9つ目、と数えていた。クロン12を過ぎて俄然、私はそわそわしてきた。車の左右を見回す。「あっ!モスクだ!」、自力で到着できた!と直感した。でも、あれから道路は3倍以上4車線の高速道路状態になってるし、一面が田園だったランシット、タンジャブリーも工場ができ、学校ができ、しかも大学まででき、換金作物関係の農園が増え、都市近郊型の景観にすっかり変わったのだ。変わらぬものはクロンだけといってよかった。

「ここで止まってくれ!」と叫んで、二人は私が訪れるであろう辺りで降りることに。村の雑貨屋の前で降ろされた。昔は、こんな雑貨屋もなかったなあ、と感慨にふける。さて、車を降りて村に来たが、私が目指すソンブンの家はどこにあるのだ?まったく浦島状態だ。高床の広々とした家が道路から見えていたのに、そうした様式の家がそびえたっているようなエリアはどこにもない。平屋や雑木が点在しすっかり姿は変わっている。

雑貨屋の若女将に「すみません、この近くにサーム・ピロンポーンというお家はないか?」と聞いてみるが、この女将、よそから入って来たのだろう、「さあ」という表情だ。そうなんだ、村は40年も経てば変わるのだ、地縁共同体ですら都市型になっていくのかもしれない。

と、そこにバイクで中年の男性が物を買いにやって来た。そして、日本人と雑貨屋の女将とのやり取りに関心を持ってくれて、近寄って来た。そして何気なく私を見て、その時「キムラ!」「キムラが来た!」と叫んだ。女将はポカンとしていたが、近くにいた稚児たちがなぜか「キムラ!キムラ!」と言い出した。そしてついてきた。私は、そうなんだ、キムラ本人は知らないにしても「キムラ」という名前は、多くの村人の中では生き続けているのだ、と直感した。

その中年の男性をみて、私も思い出した。沿道のサーラでビールを飲んだ時の若者の顔、それが40年経っても面影が濃厚に残っている。真っ黒の顔で口角が張り、肌がぎらぎらし、目が澄んで、そしてビールをいれたグラスで私のグラスと乾杯してたあの時の満願の笑顔の面影がそのままなのだ。「キムラ、俺について来い!」と言って雑貨屋からややバイクを引きずって後戻りしてピロンポーンの屋敷まで案内してくれた。そして屋敷の繁みに向かって「キムラだ!キムラがきたぞぉ!」と叫んでくれた。

屋敷の方では、もう私が知らない世代の子ども達が遊んでいた。その叫びに呼応する者はいなかった。それでも、私が道路からその屋敷に入ろうとしたその瞬間、「オーイ!キムラ!キムラ!」という女性たちの声が遠くから聞こえる。2人の女性が道路の向こう側のクロン側から、渡ろうとしている。激しく行き来する車の間をぬって駆け寄って来ようとしている。甲高いは、聞き覚えのある、あきらかにソングシーの声だ。



胸がジンとした。隠密で来たはずの村で歓迎の爆発が始まろうとしているのだ。後ずさりできない。ソングシーと一緒に道路を渡って来たソンブンが「キムラ、何日いる?泊まっていけ」といきなり叫ぶ。これも40年前に耳にした同じセリフだ!私は無条件で涙腺が緩んだ。目頭が熱くなって目をこすった。そして手を取って握り合った。

ソングシーも泣いていた。

思い返せば40年の月日は長い。しかし、40年前の思い出はそのままお互いの心に残り生き続けている。その時の瞬間瞬間がまざまざとよみがえって来る。40年前、私が村を去る前夜はみんな家族や親族は黙りっこく、ある意味で不機嫌になっていた。「キムラ、いつ帰ってくる。」と聞いて来る。そうだ「飛行機が飛ぶ音を聞くとキムラが来たな」と思う、という者もいた。

その間には、お互いではあるが、亡くなった人もいる。結婚してどこかへ行った人もいる。そして、ここに住んで家族をもって子どもも設けて、さらに孫までもいる。洪水で溺死した主婦もいれば道路で車に轢かれた子どももいる。当時、唯一、中学に学び、先生から英語ができる、と褒められていたソンブンは突如、迷い込んだキムラの通訳という役目になった。