知らないタイを歩いてみたい!

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イサーン見聞記8  フィールドノートより

2022-04-06 07:22:10 | コンケーン
長い間、眠ってたフラフカードを整理してみた。
当時の調査内容を綴ったものである。
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一応、中部タイのフィールドワークに一区切りをつけたので次なる農村を探して東北タイへ向かった。1980年8月1日のことである。
<スタート>
筆者が初めてタイへ行った時からパイアラットという運転手兼通訳にお世話になっており、彼が「東北タイ(以後、イサーン)へ行くなら俺はカムナン(郡長)を知ってるコンケーンにしよう」と提案してくれた。にべもなくそうすることにした。
イサーンのはじめての旅である。

<バンコクから>
チェントアという会社のバスに乗りバンコクを午後11時20分に出発した。出発に当たって車内サービスとして音楽が流されるのに深夜であるにも関わらず気を良くした。「コンケーン、ここはコンケーン、イサーンの中心だ私のふるさとだ。私はコンケーンとともにある。忘れない」と通訳は歌の内容を訳してくれた。バスはラーマⅣ世像を右手に北へ向かっていた。

<パクチョン>
少しうとうとしたかと思った時、バスはゆっくりと方向を左に曲がり一時停車に入った。午前2時だった。パクチョンという町のパーキングエリアである。笹に包まった匂いのきついハムを少しと水を食す。イサーン料理なのか分からないが辛そうなもの塩味のきついもの、干したものと思われるもの多々あり。

<夜明け前>
バスは不思議の国の森の中をただひたすらに走り抜けていったようだ。そしてやや東の空が白み始めてきた。車窓から見える黒ずんだ塊は森だと、うっすらと識別できるようになった。すべてが自然であり、とても豊かである。道路の端は粘土質のような土壌が赤茶けて見えるようになる。そして水のない田圃も見えてきた。
緑と赤、これがイサーンの色だ。豊かな自然のようで荒涼としている自然、西部劇でも連想させる。

<コラート高原>
薄暗い夜風に丘陵で木が揺れている。遠く彼方に極楽浄土でもありそうな、白雪姫の魔女でも棲んでいそうな森、九州のヤマナミハイウエーイを連想させる高原地帯。
そうだ、コラート高原の入り口だ。赤みの土壌はラテライト土壌だ。
 *小学館・ジャポニカより「タイ北東部にある高原。西をドン・プラヤ・エン山脈、南  をドンレク山脈、北から東をメコン川に囲まれる。中生代の砂岩が水平に横たわる構造平野で、標高は100~200メートルと低い。岩盤の表面には薄くラテライトが堆積(たいせき)している。山地に囲まれているので降水量は少なく、年800ミリメートル以下の地域がある。大部分はメコン川支流のムン川の流域だが、雨期と乾期で流量差が大きい。乾期に水を供給するために、メコン川総合開発の一環としてムン川にダムが建設されている。おもな都市にはナコン・ラチャシーマー、ウドン・ターニ、ウボンなどがあるが、いずれも小都市で、タイではもっとも開発の遅れている地方である。[大矢雅彦]1984~1994刊
<夜明け>
自然の山並みに人間の手が加わった人工加工物が一つ二つと増えてくる。空がすっかり明るくなってきた。景色の中にカラー色がくっきりしてきたのである。田圃はあくまでも濃く緑に静寂で、道路は赤みが目立ち始める。

<コンケーン到着>
5時50分、バスターミナルに到着。気温22℃。バスを降りて、そばにいるミニバスに乗りとりあえずすごろくのスタートに立つべし、通訳パイアラットの友人と称する学校の先生を訪ねるべし「コンケーン・コマーシャル・カレッジ」に向かった。学校はまだ開いてなく校庭でバスケット早朝練習をしている学生にその先生の下宿先をたずね再びミニバスに乗り込んだ。

<友人、パッチョン氏>
31才。胸にイレズミが冴える。クメール文字だといい、1年前にウドムタニで彫ったという。「ブッダよ、たすけたまえ」と刻まれている。3か月前に離婚した、という。

<交渉>
「どこか田んぼが見せてほしい。できたら宿泊もさせてほしい。そんな農村へ連れて行ってくれ。」とミニバスの運転手(スーテン氏)に切り出す。
「オレのうちは20ライの農家だ。うちでもよかたら来てもいいぜ。」となった。
さあ、筆者の好奇心、冒険心は最高潮に達する。コンケーンの朝はここちよい。とても涼しい。
荷台に飛び乗った。走り出す。僧侶の隊列がビンタートに向かう、朝市が見える、そしてコンケーン大学の池が過ぎる。
スーテン氏「大歓迎だ。日本から来た客人、バンコクから来た客人、イサーンはどこでも客人を泊めるよ。」と.。

<村>
中心部から10キロほど南下し、そこで東(つまり右)おれして10キロほど行った道路をまた右(北)折れして3キロほどしたところを左に直角(西向き)1キロ走ったところにスーテン氏の家があった。
コンケーン県ムアン郡バントム地区(大字)ムーバーン?が行政単位である。
ムアンとは県庁所在地のアンプー(郡)のことである。県には17のアンプーがある。
アンプームアンには2つのタンボンがある。バントムはその一つのタンボン(大字)である。さらにバントムには9つのムーバン(村)がある。



スーティン氏の小字(ムーバーン)はムー10で正式には「ノーンバーン・ルンパー・マイサワーティ」村と呼ばれている。

<人口>
コンケーン県には約150万人の人口がありだいたい8割が農業、2割が非農業(会社経営、勤労者、公務員、自営業など)らしい。
タンボン・バントムは700戸あり、人口は4000~5000人だそうだ。ムー10は269戸で1345人が在住している。耕作面積はざっと2000ライとのこと。

<スーティン氏の仕事>
農家に宿泊できる、足回りは彼のミニバスという前提が整った。彼のドライバーとしての一日はすべて差し引いて約200バーツの稼ぎとのこと。筆者がその日割りでその代金を支払うことになった。となると、月に5000~6000バーツを稼ぐ。しかし月に2000バーツは車のローンで返済するそうだ。彼は24カ月、つまり2年間で完済しなければならない、と言う。こうしたミニ・バスで稼ぐ者は村では5%位はいるようである。

<村の農業外収入>
ところで彼は一年間、このミニバス運転手をしているわけではない。まず、農繁期には20ライの水田稲作耕作がある。それとこの地域では多くの家で養蚕業も営んでシルクを作っている。こうした家内作業と農閑期にはミニ・バス業や町の市場で働いたり、男なら工事現場へも出稼ぎに行く。男の75%はこの現業職らしい。すべて最低賃金は40バーツ/日だそうだ。

<村人の生活費>
ずばり聞いてみた。スーティン氏 1日40バーツで家族を養っている。
隣人ファン氏も40バーツ、プー・ヤイ・バンは50バーツ、副村長も50バーツは必要という。

<スーテン氏の家>
村の様子を見るためにスーテン氏宅を起点にカメラをもって歩いたり、実際に村はずれのスーテン氏の田圃をスケッチしにいったりした。その内容は別頁で述べたい。

イサーン見聞記7

2022-04-06 05:30:36 | ハノイ
夜行バスで眠られなかったせいか、または た安心感のせいか、新着の異郷の土地にもかわらずたっぷり午睡ができました。床下でがやがや話す声で目を覚したのは午後三時をまわっていました。
まだ気温は三十度ありますが暑かった日差もやや弱まり、樹々の地にさす影も濃さを増してきたようにみえます。

ガイドのパイラット氏が木製の階段をあがってきました。「キムラさん、朝会ったコンケーンコマーシャルカレッジの先生たちが来てくれましたよ。」 彼のうしろから二人の男性と一人の女性があがってきました。 午睡起きでボーッとしていた私の意識も嬉しい訪問者が目の前に来たという状況を確認してにわかに活気づいてきました。イサーンの先生と話ができる!このことは私にとって感動的な事なのです。あのタイ映画でみた 「クルー・バン・ノーク」 (田舎の先生)が私のミミズのネットワークに出現したのです。 イサーンの教育事情、特に子どもたちの勉強の様子や 暮しの実情、先生たちの教育観などどうしてどうしても聞きたいと思っていました。ここで面識をつくっておけば、今度日本へ帰ったあとも教育交流はできるはずです。イサーンの先生と 話すことー今回の大きな目的のひとつでした。

さっそくパーティの準備です。スーテン氏 の奥さんが手際よく手料理を作ってくれまし た牛肉と野菜を炒めたものでヌーヤム・ナ ム・トクという料理でレモン汁につけて食べ るのだそうです。ガイド氏も手際よくアルコ ール類やジュースを持ち込んでくれました。
人来たりなばアルコールはいづこの国も同じか。 タイウイスキー(中瓶で二十パーツ)、 メコンウイスキー(小瓶で六十パーツ)、氷 (一キロ八パーツ) (※一パーツ約九円)が 並べられました。テープレコーダー、カメラ、ノート、メモ用紙、私のフィールドワー クも準備OKです。 やがてスーテン氏の隣人、友人、親戚の人も車座に加わってくれました。いよいよアルコールを口にしながら談笑することになりました。

ガイド氏が連れて来た男性二人は先生、女性の一人はその友達です 一人は今朝、町に到着直後に訪れたガイド氏の「助っ人」のトン チャイ先生。少し赤ら顔でやさしそうです が、野武士のような精悍な面持です。生まれも育ちも首都バンコックで五年前に教師とし てイサーンにやってきたという変わった経歴 二十九歳、商業を担当しているとのこと。 女性はこの先生の友達。ラオス国境の町ノン カイで生まれ、現在コンケーンの自動車会社のOLのエーイさん、二十五歳です。 もう一人の先生はバンテュー先生でコンケーン生まれで教育もコンケーンで受けた生粋のイサー ン子。彼の奥さんは南部タイの人で学生時代 に知り合い結婚したとか。 彼の教科は英語。 私の英語で話しかけるのですが、お互いにナマリのきついせいか意志疎通がうまくいきま せん。ガイド氏なして生の声が聞かせてもら えると期待したのですが無理でした。

私の一番の関心事はイサーンの人が常日頃 イサーンを、コンケーンをどのように考えて いるか、ということでした。とにかく車座になった人々に順番に聞いてみることにしましました。

まずはトンチャイ先生。「僕は五年前にバンコックからここに来たがイサーンはいいね。特にこのコンケーンは大きな問題もないし、住み心地がいいね。
初めてここに来た時は大きなビルも会社もほとんどなかった。随分変わったね。」

それではパンテュー先生はいかがですか。「ぼくはイサーンに生まれたことをとても誇りに思っている。 二十年前にタイの首相になったタナラットはここから二百キロほど北に行ったナコンパーム県の出身だが、彼はイサーンを次々に開発してくれた。ナコンバーム、コンケーン、ウドン、コラートは大都会になったね。今、トンチャイ先生が言ったようにコンケーンだけ考えてみても、ほとんど電気は普及したし、テレビ、ラジオの中継地もでき大いに普及しつつある。新聞もその日のうちに入るようになったし、 今年から電話もバンコックから直通になったよ。 バスなどの交通網もよく発展し、バンコックも近くなったね。もうすぐバンコックと 同じくらい発展すると思うね、いや、将来は タイの中心になるよ、きっと。」 すごい自信と誇りなのです。「人々は生活も楽になった し、不平不満を言う人もいない。ものを盗む 者も全くいない。」とパンテュー先生の礼賛の弁舌は止むところを知りません。<バンコックと同じようになる>と彼が言うことには少々戸惑いをもちますが、この五年間の町の発展ぶりは確かなようです。

エーイさんはいか がですか。「わたしが六年前に来た時は 何もなかったのに、本当に変わりましたね。」スーテン氏も奥さんもおばあさんのタイオン さんも同じ意見のようです。 スーテン氏の叔 父に当るカイ氏 (四十八歳)。 「そうだね、わ しもみんなと同じ意見だよ。ここで生まれた しコンケーンが一番だ。特に盗人がいないこ とがいい。これからますます発展すると思う よ。」
それでは隣人ファン氏(四十四歳)は? 「カイおっさんと同じだね。 昔とくらべてみ んなが学校へ行くようになってそれだけ男の 子 女の子がかしこくなったね。 田んぼに出 たがらんのが問題だがね。昔、町に行っても あれほど多く車もなかったし、会社、オフィ ス、銀行、市場、映画館なんてものもなかっ た。十年前とくらべると夢のように変っちまったよ。今後もどんどん発展して良くなると 思うよ。」最後のインタビューはパチョン氏 (三十一歳)。 スーテン氏の幼な友達です。 話はここで少し横道にそれますが、男連中は皆 上半身裸なのです。

このパチョン氏も裸なの ですが、首下にみごとなイレズミをしているのです。図柄はアンコールワットのようなお寺院の模様で、その下にはクメール文字があり、「仏陀の御慈悲を!」と刻まれているそうです。
一年前にウドンタニの僧に彫りつけてもらったとか。話を元に戻して彼の言は「ここはイサーンの中心だね。 今後もどんどん発展していくよ。だけど、新聞で読む限りタイはまだまだ多くの問題をかかえているよ。最近はコミュニストの問題が深刻だね。」である。 少し辛目のコメントか。でもここに集ま
ってくれた先生、会社員、農民、運転手、みんなイサーン人として一様に郷土に誇りと自信を持っていることは確かです。
そして、おの原因がここ五年、十年の産業、経済の圧倒的な発展にあるようです。

タイは一九六一年より「国家経済社会発展計画」を実施し、この年は第四次五か年計画の大詰とか。その主目的である「経済活動の地方分散化」、「後進農村地域の貧困除去」、さらには「都市農村の所得格差の縮少」などの政策はここコンケーンでは確かに浸透してきているようです。いや彼等の言葉を借りる限り目を見張るものがあるようです。が、こうした経済開発が真にそこに住む人々すべて幸せをもたらすかどうか未確定ですし、イサーンにおける急速な発展の影に予期できぬ魔手が潜んでいないとも言えないでしょう。