407パッタナというバスの会社のオフィスへ。私が外人だとみて事務員が奥で食事をしていた女学生を通訳として呼んできた。感謝と言っても家内企業のようだ。彼女は英語で話しかけてくるので切符の予約以外にノンカイでの短期観光の仕方も尋ねてみた。バンコク往きは夜の8時30分、170バーツ。時計を見ればあと4時間残っている。炎天下の中長時間のバスの旅だったのでまずは静養兼飲食だ。涼しいレストランを教えてくれ、と。「パッタウィーホテルのレストランがいいでしょう。」と相成った。短時間の見学ポイントとしては「メコン川に沿って夕陽を眺めるのが最高ですよ。」とグッドアドバイスを受けて3バーツのサムローに乗る。川辺の長方形の邑なので地形的にはだいたい方角は分かるのだが念のために女学生はタイ語版の地図を書いてくれ「これをサムローにみせてください。」と心配りをしてくれた。
パッタウィーは町の西はずれにあった。夕方にはやくまだ客足はなかった。広いレストランの空間に私一人であった。テーブルのメニューは手作りで面白いことが書いてある。「いま、あなたが食べようとしている魚は昨晩までメコンの川底に眠っていたものです。」と。いかにも新鮮そのものではないか。そしてその後に料理方法まで書かれている。「ニンニクと胡椒を使ってフライにする。チリソースでフライにする。甘味、酸味のスープにする。」メコン漁料理が売りのようだが、トムヤムクンと白飯だけを注文する。しめて45バーツ。このレストランのウエイトレスは全く陽気である。他に客がいないのと私が日本人だという珍しさからか食事を勝手にさせてくれない。「オシン」、「タナカユウコ」、「キモノ」、などなどテレビメディアの話題でたたみかけてくる。持ち合わせのメコンウイスキーをリュックから出して氷をもらってチビチビやる。一時間近くウエイトレスたちと談笑した。
ナコンパノム、ノンカイいずれの町もメコン川に付着したように伸びるせいぜい1キロ平方キロの横長の町である。そしてこうした町の産業や生活 の強く影響している求心力といったものは、ずばりラオスとの交易である。そうした歴史的な流れがあったにも拘わらず、1975年の共産主義革命以降は全く往来、交通が遮断されたままであり、往時の盛んな活況は見られない。現在の姿は民芸品を売るタイ辺境の田舎町といったイメージしか感じられない。
こうした地方の町々をスケッチしてみる。町の中央に時計塔がある。日本には中央にあることはないだろう。そして時計塔の針はたいてい止まっているかあらぬ時刻を表示している。森のようなところにワット(寺院)がどっかと空間を占め高い仏塔を競い、近代的な商店街の裏通りには商いと社交と人々のコミュニケーションの場を兼ね備えたタラー(市場)が自然発生的に形成され町の鼓動を感じさせている。また、近代的な学校施設も教育にかける意気込みを感じさせる。町を成立させている共通点はどこもこんな感じである。そしてバスに数分間乗れば人家は減っていきやがて数分間もたてば荒野の真ん中に放り出される、といった感じである。若い男が昼間からラムヤイを食べ合っている社会、人間が人間をいたわり、関心を示す社会の有る領域、そしてその領域を決して拡大する様子もないムアンの世界、東南アジアの内陸の「小宇宙」として町は静かに息づいて存在している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます