長い間、眠ってたフラフカードを整理してみた。
当時の調査内容を綴ったものである。
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一応、中部タイのフィールドワークに一区切りをつけたので次なる農村を探して東北タイへ向かった。1980年8月1日のことである。
<スタート>
筆者が初めてタイへ行った時からパイアラットという運転手兼通訳にお世話になっており、彼が「東北タイ(以後、イサーン)へ行くなら俺はカムナン(郡長)を知ってるコンケーンにしよう」と提案してくれた。にべもなくそうすることにした。
イサーンのはじめての旅である。
<バンコクから>
チェントアという会社のバスに乗りバンコクを午後11時20分に出発した。出発に当たって車内サービスとして音楽が流されるのに深夜であるにも関わらず気を良くした。「コンケーン、ここはコンケーン、イサーンの中心だ私のふるさとだ。私はコンケーンとともにある。忘れない」と通訳は歌の内容を訳してくれた。バスはラーマⅣ世像を右手に北へ向かっていた。
<パクチョン>
少しうとうとしたかと思った時、バスはゆっくりと方向を左に曲がり一時停車に入った。午前2時だった。パクチョンという町のパーキングエリアである。笹に包まった匂いのきついハムを少しと水を食す。イサーン料理なのか分からないが辛そうなもの塩味のきついもの、干したものと思われるもの多々あり。
<夜明け前>
バスは不思議の国の森の中をただひたすらに走り抜けていったようだ。そしてやや東の空が白み始めてきた。車窓から見える黒ずんだ塊は森だと、うっすらと識別できるようになった。すべてが自然であり、とても豊かである。道路の端は粘土質のような土壌が赤茶けて見えるようになる。そして水のない田圃も見えてきた。
緑と赤、これがイサーンの色だ。豊かな自然のようで荒涼としている自然、西部劇でも連想させる。
<コラート高原>
薄暗い夜風に丘陵で木が揺れている。遠く彼方に極楽浄土でもありそうな、白雪姫の魔女でも棲んでいそうな森、九州のヤマナミハイウエーイを連想させる高原地帯。
そうだ、コラート高原の入り口だ。赤みの土壌はラテライト土壌だ。
*小学館・ジャポニカより「タイ北東部にある高原。西をドン・プラヤ・エン山脈、南 をドンレク山脈、北から東をメコン川に囲まれる。中生代の砂岩が水平に横たわる構造平野で、標高は100~200メートルと低い。岩盤の表面には薄くラテライトが堆積(たいせき)している。山地に囲まれているので降水量は少なく、年800ミリメートル以下の地域がある。大部分はメコン川支流のムン川の流域だが、雨期と乾期で流量差が大きい。乾期に水を供給するために、メコン川総合開発の一環としてムン川にダムが建設されている。おもな都市にはナコン・ラチャシーマー、ウドン・ターニ、ウボンなどがあるが、いずれも小都市で、タイではもっとも開発の遅れている地方である。[大矢雅彦]1984~1994刊
<夜明け>
自然の山並みに人間の手が加わった人工加工物が一つ二つと増えてくる。空がすっかり明るくなってきた。景色の中にカラー色がくっきりしてきたのである。田圃はあくまでも濃く緑に静寂で、道路は赤みが目立ち始める。
<コンケーン到着>
5時50分、バスターミナルに到着。気温22℃。バスを降りて、そばにいるミニバスに乗りとりあえずすごろくのスタートに立つべし、通訳パイアラットの友人と称する学校の先生を訪ねるべし「コンケーン・コマーシャル・カレッジ」に向かった。学校はまだ開いてなく校庭でバスケット早朝練習をしている学生にその先生の下宿先をたずね再びミニバスに乗り込んだ。
<友人、パッチョン氏>
31才。胸にイレズミが冴える。クメール文字だといい、1年前にウドムタニで彫ったという。「ブッダよ、たすけたまえ」と刻まれている。3か月前に離婚した、という。
<交渉>
「どこか田んぼが見せてほしい。できたら宿泊もさせてほしい。そんな農村へ連れて行ってくれ。」とミニバスの運転手(スーテン氏)に切り出す。
「オレのうちは20ライの農家だ。うちでもよかたら来てもいいぜ。」となった。
さあ、筆者の好奇心、冒険心は最高潮に達する。コンケーンの朝はここちよい。とても涼しい。
荷台に飛び乗った。走り出す。僧侶の隊列がビンタートに向かう、朝市が見える、そしてコンケーン大学の池が過ぎる。
スーテン氏「大歓迎だ。日本から来た客人、バンコクから来た客人、イサーンはどこでも客人を泊めるよ。」と.。
<村>
中心部から10キロほど南下し、そこで東(つまり右)おれして10キロほど行った道路をまた右(北)折れして3キロほどしたところを左に直角(西向き)1キロ走ったところにスーテン氏の家があった。
コンケーン県ムアン郡バントム地区(大字)ムーバーン?が行政単位である。
ムアンとは県庁所在地のアンプー(郡)のことである。県には17のアンプーがある。
アンプームアンには2つのタンボンがある。バントムはその一つのタンボン(大字)である。さらにバントムには9つのムーバン(村)がある。
スーティン氏の小字(ムーバーン)はムー10で正式には「ノーンバーン・ルンパー・マイサワーティ」村と呼ばれている。
<人口>
コンケーン県には約150万人の人口がありだいたい8割が農業、2割が非農業(会社経営、勤労者、公務員、自営業など)らしい。
タンボン・バントムは700戸あり、人口は4000~5000人だそうだ。ムー10は269戸で1345人が在住している。耕作面積はざっと2000ライとのこと。
<スーティン氏の仕事>
農家に宿泊できる、足回りは彼のミニバスという前提が整った。彼のドライバーとしての一日はすべて差し引いて約200バーツの稼ぎとのこと。筆者がその日割りでその代金を支払うことになった。となると、月に5000~6000バーツを稼ぐ。しかし月に2000バーツは車のローンで返済するそうだ。彼は24カ月、つまり2年間で完済しなければならない、と言う。こうしたミニ・バスで稼ぐ者は村では5%位はいるようである。
<村の農業外収入>
ところで彼は一年間、このミニバス運転手をしているわけではない。まず、農繁期には20ライの水田稲作耕作がある。それとこの地域では多くの家で養蚕業も営んでシルクを作っている。こうした家内作業と農閑期にはミニ・バス業や町の市場で働いたり、男なら工事現場へも出稼ぎに行く。男の75%はこの現業職らしい。すべて最低賃金は40バーツ/日だそうだ。
<村人の生活費>
ずばり聞いてみた。スーティン氏 1日40バーツで家族を養っている。
隣人ファン氏も40バーツ、プー・ヤイ・バンは50バーツ、副村長も50バーツは必要という。
<スーテン氏の家>
村の様子を見るためにスーテン氏宅を起点にカメラをもって歩いたり、実際に村はずれのスーテン氏の田圃をスケッチしにいったりした。その内容は別頁で述べたい。
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