運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

千と千尋の

2011年01月08日 16時31分39秒 | Weblog
たまたまテレビをつけたら、「千と千尋の神隠し」を、またまたまた、やっていた。
そして、またまたまたまたまた、DVDだってあるのに、最後まで観てしまった。

毎回、インスパイアされる箇所が違う。
毎回、おにぎりをほおばるシーンでは泣いちゃうけれど。

『名前を失うことは自分を失うことだ』

そうなんだね、やっぱり。

このところ、きゅうに自分を別の名前で名乗り始めた人たちに共通していること。

処理の終わらない現実をそのままにしたままで
とりあえず自分の欲求を叶えようとしているうちに
すっかりその名前でもてはやされたり本来の自分の分が他人事のようになったり
戻れなくなったりしている傾向が大きい。

だけど、別の人間になった「気になる」ことで、
もうひとつの通行手形を手にしたように思っても
実際には名前を変えただけで、新しい人間になれるわけではないから
周囲の人々や現実にしわ寄せが行っている。

錯覚の世界の中で還れなくなってしまっても
当人達はそれでもよいとしても
その人たちが親である場合
自分たちだけ、勝手に別人になったその人たちの影響を
まともにかぶるのはのはそれぞれの子供たちだ。
それがわかっているから、その子達は
親がきゅうに名乗りだした名前で呼ばれていることに抵抗を示しても無理は無いって思う。
そしてまた,そういう人たちにかぎって
「子供達「や「次の世代」のためになどと公言したり活動したりしているから
「今現在目の前にいる」子供としては,なんか変!?と、
背後にごまかしや矛盾の匂いを感じてしまうのだろうなあ。

『名前を失ったら、本当の自分に還れない』

千の名前は千尋
ハクの名前は琥珀川

匿名が横行し、ミクシーネームやツイッターが盛んになり
いろんなものが遊離した不思議な世界は加速していく。
本当の自分なんてないんだ、そんな声も聞こえてきそうだ。
じゃあ、いまはやりの、自分を信じるという、自分自身の声を聴くという風潮は
この匿名社会で、どこに軸を立て、何を信じるのだろう。

『名前をとられるんじゃないよ』

豚になってしまった千尋の両親には、そんな言葉もわからないし通じない。
自分たちを人間にもどしてくれた千尋の奮闘も知らない。

たぶん、名前とは宇宙への自分の魂の記録を照合するための目印なのかもねー





2011年の

2011年01月07日 20時48分19秒 | Weblog


あけましておめでとうございます。

お正月、子供のころよく「ことわざかるた」というので遊んだ。
覚えさせようと、母が買っておいたのにまんまとのせられて大好きだった。
せーんぶ、そらんじているけれど
意味は、あの頃、勝手に解釈していたりした。

「無理が通れば道理引っ込む。」

これは、太っちょで偉そうなお侍が通ると、やせっぽちの町人風の人は突き飛ばされて情けない顔でオットット・・・とよろけている絵だった。

無理さんが通ると通りさんがひっこむのかと思っていた幼稚園時代だった。

このことわざの怖さと深さと実在を本当に知ったのはまだ最近だが

今度はさらに、国レベルでもとんでもないことが進行中みたいだ。


中国は、2012年中には台湾やチベットと同じように
「もともとは自分たちの国である日本」を「取り返す」と言っているんだよー。
どんどん、土地を買い占めているんだよー。
どんどん、人を送り込んでいるんだよー。
どんなあとづけの理由でも成り立たせてしまう。
自分たちの都合に合わせて事実を変えて本気であの人たちは信じてしまうことができるんだよー・

中国が、日本は元は自分たちの国だといっている根拠が
世界はもともとひとつ、というならいい。
だから、互いの違いを認め合いながら仲良く共存していこうというなら
大きなひとつになろうというならいいよ。
でも、取り返す、自分たちのものにするっていう論理はあまりにも物騒です。

日本がもともと中国のものだという論拠が
漢字文化にもあるのだとしたら
私は、断固いそぐ。
漢字などより以前、ずっとずっと以前に、この国は尊い文字も文化も神も哲学もあったことをひろめていく。
日本の本来の文化は般若心経にあるのではないこと。
イザナギ、イザナミが降ろすそのずっと前から
気が遠くなるほどのにほんじんの言葉も精神性もあるのだということを。

ほんとうにほんとうの真 ホツマ があること。

そして、人々はあめなるみちを忘れず、天なるみちと大地と己を繋いで、和して暮らしていたことを。


争わない、自己を律し、人を思いやるという私たち民族の特質をよいことに
そこまでの勝手はもはやゆるされない天の時もきつつある。

無理さんが通れない世がそこまでやってきている。。。
でも、天だけに任せず
わたしたちも大切なことを思い出して
三次元的にもちゃんと力を尽くさなければ。

2011年

素晴らしい年であるように

素晴らしい世界でありますように。