浅草寺から(東京都台東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「人に好かれるための努力」が苦痛や負担になるなら、間違いなくやめたほうがいいと、私は思います。
「この人の力になれるのが楽しくってしょうがない」と、人が喜ぶことを心から楽しんでやっているのならよいのです。
なぜなら、そこには嘘や偽りがない代わりに、本人の自然な姿があるからです。
だから、苦痛も負担もない。
しかし、「人のために」と言いながらなんらかの期待をすると、必ず無理が生じます。
なぜなら、人には等しく個性がある以上、自分に合わないところを埋め合わせようと、どこかで自分を犠牲にすることになるからです。
純粋に相手を思えば、それは犠牲でもなんでもないし、そもそも犠牲と感じることもありませんが、
期待があったり、見返りを待っていると、自分が払ってきた「犠牲」に執着することになるのです。
さらに言えば、「人に認めてほしい」と自分を良く見せるのは、悪い言葉で言うと、「営業」であり、「媚び」です。
そう、偽った姿を晒して、それを認めてもらおうと言っても、
結局は自然体ではないのですから、「詐欺」と言われても仕方がない。
そしてまた、いくら褒められようと、自然な姿に対して認めてもらったわけではないのですから、
「いつかは仮面が外れて、大変なことになる」と、褒められるとかえって落ち着かない…ということにもなってしまいかねません。
このように、「認められよう精神」は、強ければ強いほど、それに反比例するかのように、
かえって意味をなさないばかりか、苦行にしかならないことが多いのです。
でも。
「しない善より、する偽善」と言われるように、
誰かの役に立つことそれ自体は、いいことですよね。
ということは、どうにかして自然体がそのまま人の役に立つようにすればいいことになります。
ということで、ちょっと、試していただきたいことがあるのです。
家族でも神様でも友達でも、誰でもいいです。
自分が認めてほしいと思っている人がいるならその人で構いません。
自分が無理をしているなぁと思っていることをしなくても、そのままで認めてくれるかどうか、
ここを考えていただきたいのですね。
もし、やらなくても認めてくれたり、大袈裟に言えば愛してくれるのならやらない、ということであれば、
つまりは、「人に認めてもらうためだけの行動」とか、酷い言い方をすれば「偽りの姿」とは言えないでしょうか。
だとしたら、そんなもの、捨て去ってしまったほうがいいということにはなりませんか。
人間、努力を努力と感じなくなることこそが、本心からやっていることです。
本心かどうかは、人からの評価を取り払ったところで分かります。
そしてまた、自分の意志でやっている限り、そのこと自体を楽しめるのですから、犠牲や損失など、どうでもいいように思える。
つまり、強くなれるのです。
「人のために」と言うのなら、本当に力になってあげるのが楽しくて仕方がないと思えることが肝要です。
多少の下心は愛嬌と言えど、あからさまにいい人ぶるのはみっともないことだという心構えを持ちましょう。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「人に好かれるための努力」が苦痛や負担になるなら、間違いなくやめたほうがいいと、私は思います。
「この人の力になれるのが楽しくってしょうがない」と、人が喜ぶことを心から楽しんでやっているのならよいのです。
なぜなら、そこには嘘や偽りがない代わりに、本人の自然な姿があるからです。
だから、苦痛も負担もない。
しかし、「人のために」と言いながらなんらかの期待をすると、必ず無理が生じます。
なぜなら、人には等しく個性がある以上、自分に合わないところを埋め合わせようと、どこかで自分を犠牲にすることになるからです。
純粋に相手を思えば、それは犠牲でもなんでもないし、そもそも犠牲と感じることもありませんが、
期待があったり、見返りを待っていると、自分が払ってきた「犠牲」に執着することになるのです。
さらに言えば、「人に認めてほしい」と自分を良く見せるのは、悪い言葉で言うと、「営業」であり、「媚び」です。
そう、偽った姿を晒して、それを認めてもらおうと言っても、
結局は自然体ではないのですから、「詐欺」と言われても仕方がない。
そしてまた、いくら褒められようと、自然な姿に対して認めてもらったわけではないのですから、
「いつかは仮面が外れて、大変なことになる」と、褒められるとかえって落ち着かない…ということにもなってしまいかねません。
このように、「認められよう精神」は、強ければ強いほど、それに反比例するかのように、
かえって意味をなさないばかりか、苦行にしかならないことが多いのです。
でも。
「しない善より、する偽善」と言われるように、
誰かの役に立つことそれ自体は、いいことですよね。
ということは、どうにかして自然体がそのまま人の役に立つようにすればいいことになります。
ということで、ちょっと、試していただきたいことがあるのです。
家族でも神様でも友達でも、誰でもいいです。
自分が認めてほしいと思っている人がいるならその人で構いません。
自分が無理をしているなぁと思っていることをしなくても、そのままで認めてくれるかどうか、
ここを考えていただきたいのですね。
もし、やらなくても認めてくれたり、大袈裟に言えば愛してくれるのならやらない、ということであれば、
つまりは、「人に認めてもらうためだけの行動」とか、酷い言い方をすれば「偽りの姿」とは言えないでしょうか。
だとしたら、そんなもの、捨て去ってしまったほうがいいということにはなりませんか。
人間、努力を努力と感じなくなることこそが、本心からやっていることです。
本心かどうかは、人からの評価を取り払ったところで分かります。
そしてまた、自分の意志でやっている限り、そのこと自体を楽しめるのですから、犠牲や損失など、どうでもいいように思える。
つまり、強くなれるのです。
「人のために」と言うのなら、本当に力になってあげるのが楽しくて仕方がないと思えることが肝要です。
多少の下心は愛嬌と言えど、あからさまにいい人ぶるのはみっともないことだという心構えを持ちましょう。