亀戸天神社の山茶花(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「自分を愛する」と言うと、どこか照れくさいというか、こそばゆい感じがするものです。
また、どこか自分や自分の世界に酔っているようで、
自分を律して生きている人には、ちょっと嫌な感じがしたりもするものです。
しかし。
「自分を愛する」というのは、実は、人のためという側面も強いのです。
自分のことが嫌いで、仕方ない人がいたとしましょう。
そんな人が出る行動というのは、だいたい人に嫌われるものがほとんどですよね。
これは、なんでかというと、「こんな醜い自分でも、受け入れてくれますか?」と、
有り体に言えば、自分で愛せなかった部分を、人になんとか愛してもらおうと押し付けているからです。
普通は、人に嫌われにいくことはありませんし、
雰囲気を悪くする理由もないはずです。
しかし、自分を悪い人間だと思っているから、嫌な仕打ちを受けて当たり前だと思って、
わざと自分が悪者になる方向へと動いてしまうわけです。
ところが、話はこれで終わりません。
一応の「望み」通り、自分が悪者になったとして、
その後で、「ああ、悪者なんだ」と納得することは、極めて稀ではないかと思うのです。
人間、誰だって自分がかわいいもの。
完全な悪者になりきるなど、耐えられるものではありません。
だから、悪者になった後、必ず自分を擁護したり、周りに言い訳をしたり、
あるいは、自分の殻に閉じこもるわけです。
でもこれ、考え方の問題だけですよね。
つまり、勝手に自分を悪者だと思って、一人相撲を取っているだけの話ではないでしょうか。
結局、人間は、自分の愛情がなければ生きられないもの。
それを認める勇気が、自立心や人への愛情として、昇華していくのではないでしょうか。
自分を愛するのは、恥ずかしいことではないのです。
自分を愛せなかった分を、人に押し付け、迷惑をかけてしまうほうが、よっぽど恥ずかしいのです。
「愛情」というのは、何も暑苦しくて大袈裟なものだけではないのです。
ちなみに。
私は、「自己愛」という言い方は、かなり堅苦しく、誤解を招きやすいと考えています。
「自己愛」という言葉が引っ掛かる皆さんは、好きな言い方を考えてみて下さい。
それだけでも、かなり勉強になるはずです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「自分を愛する」と言うと、どこか照れくさいというか、こそばゆい感じがするものです。
また、どこか自分や自分の世界に酔っているようで、
自分を律して生きている人には、ちょっと嫌な感じがしたりもするものです。
しかし。
「自分を愛する」というのは、実は、人のためという側面も強いのです。
自分のことが嫌いで、仕方ない人がいたとしましょう。
そんな人が出る行動というのは、だいたい人に嫌われるものがほとんどですよね。
これは、なんでかというと、「こんな醜い自分でも、受け入れてくれますか?」と、
有り体に言えば、自分で愛せなかった部分を、人になんとか愛してもらおうと押し付けているからです。
普通は、人に嫌われにいくことはありませんし、
雰囲気を悪くする理由もないはずです。
しかし、自分を悪い人間だと思っているから、嫌な仕打ちを受けて当たり前だと思って、
わざと自分が悪者になる方向へと動いてしまうわけです。
ところが、話はこれで終わりません。
一応の「望み」通り、自分が悪者になったとして、
その後で、「ああ、悪者なんだ」と納得することは、極めて稀ではないかと思うのです。
人間、誰だって自分がかわいいもの。
完全な悪者になりきるなど、耐えられるものではありません。
だから、悪者になった後、必ず自分を擁護したり、周りに言い訳をしたり、
あるいは、自分の殻に閉じこもるわけです。
でもこれ、考え方の問題だけですよね。
つまり、勝手に自分を悪者だと思って、一人相撲を取っているだけの話ではないでしょうか。
結局、人間は、自分の愛情がなければ生きられないもの。
それを認める勇気が、自立心や人への愛情として、昇華していくのではないでしょうか。
自分を愛するのは、恥ずかしいことではないのです。
自分を愛せなかった分を、人に押し付け、迷惑をかけてしまうほうが、よっぽど恥ずかしいのです。
「愛情」というのは、何も暑苦しくて大袈裟なものだけではないのです。
ちなみに。
私は、「自己愛」という言い方は、かなり堅苦しく、誤解を招きやすいと考えています。
「自己愛」という言葉が引っ掛かる皆さんは、好きな言い方を考えてみて下さい。
それだけでも、かなり勉強になるはずです。