梅の花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
オカルトの話って、皆さんは信じたりするほうですか!?
私は、信じたい人が、好きなだけ信じればいいだけの話だと思っています。
たとえば(、こんな目茶苦茶な言い伝えはありませんが)、
「ご飯を食べる前に「ALOHA」と唱えると、ご飯の成分が嬉しがって、舌に馴染むようにおいしくなる」という話があったとしましょう。
はたから見れば、実に馬鹿馬鹿しい、いい加減な話でしかありません。
しかし、それで本人が幸せになるとか、食べ物のありがたみがわかるなら、文句はありませんよね。
オカルトもなにも、結局は趣味の問題です。
お酒を飲んでスッキリしたり、ゲームをやって楽しんだりするのと、
非科学的なオカルトの話を信じていい気分になるのも、本質的には同じなのです。
人間の気分が良くなるかどうかを考えるとき、科学的な裏付けがあるかどうかはあまり意味がない気がします。
ただし。
「オカルト」が趣味の問題である以上、やっぱり、趣味で生じてくる問題と似た問題点が出てくると考えるのが自然です。
世の中には、音楽が好きな人もいれば、鉄道が好きな人も、写真が好きな人もいます。
しかし、いずれにも言えるのは、収入や実益に繋がらないのにそればかりに没頭してしまうと、趣味に自分の身を食べられてしまうことになります。
そしてまた、音楽が好きな人が、鉄道にしか興味のない人にいくら音楽の素晴らしさを説いたところで、
それは有難迷惑でしかありませんよね。
つまり、オカルトの話でいくら気分がよくなったからと、人にその話を押し売りしてしまうようでは、
煙たがられる以上のことは起こらないと思います(笑)
ただし、趣味を通して気分が良くなるから、元気にもなれるのも、また事実ですよね。
また、趣味を教え合うことで、お互いの世界を広められる部分はあると思います。
さて。
いずれにも共通して言えること、お分かりになったでしょうか!?
オカルトの話も趣味も、現実が主体になっているうちは、楽しんでいても全く問題ないのです。
科学的な裏付けがあるかないかに気を取られているばかりでは、心の重荷も降ろせない時があるものです。
だから、気が晴れない時、よくわからない話でも、半分は信じたほうがいいこともあるのです。
ただし、そこに本人の意見や現実とのすり合わせがあるかないか、
そこに、考え方の趣味が幸せになるかどうかが分かれる気がします。
心の内と現実、どちらかが止まってしまったら、生きていくことが難しくなってしまう。
お互いのために、お互いがあるのです。
最後に。
オカルトの話でも、あえて裏付けを説明せずに、「不思議な話」として処理をして話をされることがあります。
自分自身が、不思議さを検証するようにしても、それはそれで、おもしろいものですよ(笑)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
オカルトの話って、皆さんは信じたりするほうですか!?
私は、信じたい人が、好きなだけ信じればいいだけの話だと思っています。
たとえば(、こんな目茶苦茶な言い伝えはありませんが)、
「ご飯を食べる前に「ALOHA」と唱えると、ご飯の成分が嬉しがって、舌に馴染むようにおいしくなる」という話があったとしましょう。
はたから見れば、実に馬鹿馬鹿しい、いい加減な話でしかありません。
しかし、それで本人が幸せになるとか、食べ物のありがたみがわかるなら、文句はありませんよね。
オカルトもなにも、結局は趣味の問題です。
お酒を飲んでスッキリしたり、ゲームをやって楽しんだりするのと、
非科学的なオカルトの話を信じていい気分になるのも、本質的には同じなのです。
人間の気分が良くなるかどうかを考えるとき、科学的な裏付けがあるかどうかはあまり意味がない気がします。
ただし。
「オカルト」が趣味の問題である以上、やっぱり、趣味で生じてくる問題と似た問題点が出てくると考えるのが自然です。
世の中には、音楽が好きな人もいれば、鉄道が好きな人も、写真が好きな人もいます。
しかし、いずれにも言えるのは、収入や実益に繋がらないのにそればかりに没頭してしまうと、趣味に自分の身を食べられてしまうことになります。
そしてまた、音楽が好きな人が、鉄道にしか興味のない人にいくら音楽の素晴らしさを説いたところで、
それは有難迷惑でしかありませんよね。
つまり、オカルトの話でいくら気分がよくなったからと、人にその話を押し売りしてしまうようでは、
煙たがられる以上のことは起こらないと思います(笑)
ただし、趣味を通して気分が良くなるから、元気にもなれるのも、また事実ですよね。
また、趣味を教え合うことで、お互いの世界を広められる部分はあると思います。
さて。
いずれにも共通して言えること、お分かりになったでしょうか!?
オカルトの話も趣味も、現実が主体になっているうちは、楽しんでいても全く問題ないのです。
科学的な裏付けがあるかないかに気を取られているばかりでは、心の重荷も降ろせない時があるものです。
だから、気が晴れない時、よくわからない話でも、半分は信じたほうがいいこともあるのです。
ただし、そこに本人の意見や現実とのすり合わせがあるかないか、
そこに、考え方の趣味が幸せになるかどうかが分かれる気がします。
心の内と現実、どちらかが止まってしまったら、生きていくことが難しくなってしまう。
お互いのために、お互いがあるのです。
最後に。
オカルトの話でも、あえて裏付けを説明せずに、「不思議な話」として処理をして話をされることがあります。
自分自身が、不思議さを検証するようにしても、それはそれで、おもしろいものですよ(笑)