ネモフィラの花(東京都江戸川区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「よかったね」と、どれくらい心から言えるか。
これは、自分がどれくらい幸せかどうかということと、ほぼ同じなのではないかと思います。
人間、自分が不幸だと、なかなか人の幸せを喜んではあげられないものです。
いくら人の幸せを妬むのは良くないといえど、
じゃあ、自分がつらい思いをしている時に、人を幸せや成功を嬉しく思えたりはしないというのが、ほとんどいないのではないでしょうか。
「人の不幸は蜜の味なんてけしからん」とか「人の幸せを願いましょう」というのはたしかに理想的かもしれませんが、
自分が満たされていない限り、やっぱり人に伝えられるのは形だけで、心を伴わせるのは難しいのが、現実ではないかと思うのですね。
だからこそ、自分を幸せにし、満たすのです。
自分を満たすというのは、一見、利己的で我欲に満ちているように見えます。
しかし、自分が満たされていないからこそ、人に親切の押し売りをし、いい人ぶって、
それでいて、報われなかったり、見返りがないと腹を立てる、
これこそが、利己的で我欲に満ちた行為ではないでしょうか?
それなら、自分が満ちたりていて、心から人の幸せを考えているほうが、何倍も人のためにならないでしょうか。
それに、自分を幸せにするようになると、見返りを求めなくなるので、
人に差し向ける気持ちや行動も、自然なものになったりはしないでしょうか。
自分を幸せにして、人に「よかったね」と言えるから、
ますます人に慕わるのです。
反対に、自分が満ち足りないまま、心が伴わないままでは、
何をやっても見返りを求める汚さが出ますから、
自然と人が引いてしまうのです。
「見返りを求めず」というと、あたかも無欲で、自分を犠牲にするかのようなイメージがなされるものですが、そうではないのです。
自分が幸せだから、なかなか心から言えないことも言えるようになるし、見返りがなくても平気でいられる。
そればかりか、「こちらのことを構っている余裕もないのか、かわいそうだな」ぐらいまで、人のことを考えてもあげられるのです。
自分の面倒は自分で見る。
人に機嫌を取らせない。
人に与えられる幸せより、自分で自分に与える幸せを優先させましょう。
そしてまた、自分が幸せかどうかを知るためにも、「よかったね」という言葉は、大切にしたいものですね。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「よかったね」と、どれくらい心から言えるか。
これは、自分がどれくらい幸せかどうかということと、ほぼ同じなのではないかと思います。
人間、自分が不幸だと、なかなか人の幸せを喜んではあげられないものです。
いくら人の幸せを妬むのは良くないといえど、
じゃあ、自分がつらい思いをしている時に、人を幸せや成功を嬉しく思えたりはしないというのが、ほとんどいないのではないでしょうか。
「人の不幸は蜜の味なんてけしからん」とか「人の幸せを願いましょう」というのはたしかに理想的かもしれませんが、
自分が満たされていない限り、やっぱり人に伝えられるのは形だけで、心を伴わせるのは難しいのが、現実ではないかと思うのですね。
だからこそ、自分を幸せにし、満たすのです。
自分を満たすというのは、一見、利己的で我欲に満ちているように見えます。
しかし、自分が満たされていないからこそ、人に親切の押し売りをし、いい人ぶって、
それでいて、報われなかったり、見返りがないと腹を立てる、
これこそが、利己的で我欲に満ちた行為ではないでしょうか?
それなら、自分が満ちたりていて、心から人の幸せを考えているほうが、何倍も人のためにならないでしょうか。
それに、自分を幸せにするようになると、見返りを求めなくなるので、
人に差し向ける気持ちや行動も、自然なものになったりはしないでしょうか。
自分を幸せにして、人に「よかったね」と言えるから、
ますます人に慕わるのです。
反対に、自分が満ち足りないまま、心が伴わないままでは、
何をやっても見返りを求める汚さが出ますから、
自然と人が引いてしまうのです。
「見返りを求めず」というと、あたかも無欲で、自分を犠牲にするかのようなイメージがなされるものですが、そうではないのです。
自分が幸せだから、なかなか心から言えないことも言えるようになるし、見返りがなくても平気でいられる。
そればかりか、「こちらのことを構っている余裕もないのか、かわいそうだな」ぐらいまで、人のことを考えてもあげられるのです。
自分の面倒は自分で見る。
人に機嫌を取らせない。
人に与えられる幸せより、自分で自分に与える幸せを優先させましょう。
そしてまた、自分が幸せかどうかを知るためにも、「よかったね」という言葉は、大切にしたいものですね。