代々木公園のバラ(東京都渋谷区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
少しだけ、抽象的な話になります。
「癒し」という言葉が出て久しいですが、
それだけに、色々なことを「癒し」と呼べるようになった側面があります。
逆に言えば、「癒し」とはなんなのかがわかりにくくなってしまった、こういう見方もできると思うのですね。
しかし。
「癒し」というのは、本質は簡単です。
「本来の自分を取り戻す」ということなのです。
本来の自分というのは、無理をしない自然な自分、
具体的には、無理のない性格やペース、五感でいられることを言います。
逆に言えば、いつも無理なく自然体で、本来の自分でいられれば、
癒しなんて、必要もないわけです。
ところが、現実には、いつも素のままでいれば、衝突や消耗も激しくなってしまいます。
「一つの意見を言うこと」だけを例に取り出して考えても、
言い方や伝え方、タイミング、ケアやフォローにどれだけ工夫を加えるかで、
起こる現象も、全く違ってきますよね。
そして、だからこそ、人は、内側の世界を上手く外側に出す、あるいは隠すために、
色々我慢をしたり、オブラートに包んだりして、その場その場に適応して、生きているわけです。
しかし、です。
適応するために色々やっていくうちに、自分の気持ちがわからなくなってしまったり、苦しいには苦しいけど原因がわかりにくくなったり、
つまり、普通に生きているだけだと、自分の内側がとんな風になっているかが、把握できなくなってしまうのです。
そこで、自分の中には色々な気持ち、
特に、人には見せられない気持ちがどこにどれだけ溜まってしまったかを見ることで、
本来の自分の姿に、蘇っていくわけです。
ところが、これがなかなか難しくて、やりずらいのです。
なぜなら、ネガティブな気持ちやエゴ丸出しの本音があるなんて、なかなか認めたくないのが人情だからです。
まさか自分にそんな卑しい気持ちがあるなんて認めてしまったら、自分のしてきた努力や美点が水の泡になってしまうと考えてしまうからです。
しかし、ちょっと待ってください。
自分の卑しさといっても、それを認めたところで、美点が失われるわけでもなければ、苦しみが増えるわけでも、実はないのです。
自分に蓋をするから、どこか自分をごまかしてしまい、結果的に苦しくなるのです。
だから、認めてしまいましょう。
「卑しさがあってもいい」と見つめるのが、癒しの本質の一部です。
こんなダジャレでも、癒しのヒントになればと思います。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
少しだけ、抽象的な話になります。
「癒し」という言葉が出て久しいですが、
それだけに、色々なことを「癒し」と呼べるようになった側面があります。
逆に言えば、「癒し」とはなんなのかがわかりにくくなってしまった、こういう見方もできると思うのですね。
しかし。
「癒し」というのは、本質は簡単です。
「本来の自分を取り戻す」ということなのです。
本来の自分というのは、無理をしない自然な自分、
具体的には、無理のない性格やペース、五感でいられることを言います。
逆に言えば、いつも無理なく自然体で、本来の自分でいられれば、
癒しなんて、必要もないわけです。
ところが、現実には、いつも素のままでいれば、衝突や消耗も激しくなってしまいます。
「一つの意見を言うこと」だけを例に取り出して考えても、
言い方や伝え方、タイミング、ケアやフォローにどれだけ工夫を加えるかで、
起こる現象も、全く違ってきますよね。
そして、だからこそ、人は、内側の世界を上手く外側に出す、あるいは隠すために、
色々我慢をしたり、オブラートに包んだりして、その場その場に適応して、生きているわけです。
しかし、です。
適応するために色々やっていくうちに、自分の気持ちがわからなくなってしまったり、苦しいには苦しいけど原因がわかりにくくなったり、
つまり、普通に生きているだけだと、自分の内側がとんな風になっているかが、把握できなくなってしまうのです。
そこで、自分の中には色々な気持ち、
特に、人には見せられない気持ちがどこにどれだけ溜まってしまったかを見ることで、
本来の自分の姿に、蘇っていくわけです。
ところが、これがなかなか難しくて、やりずらいのです。
なぜなら、ネガティブな気持ちやエゴ丸出しの本音があるなんて、なかなか認めたくないのが人情だからです。
まさか自分にそんな卑しい気持ちがあるなんて認めてしまったら、自分のしてきた努力や美点が水の泡になってしまうと考えてしまうからです。
しかし、ちょっと待ってください。
自分の卑しさといっても、それを認めたところで、美点が失われるわけでもなければ、苦しみが増えるわけでも、実はないのです。
自分に蓋をするから、どこか自分をごまかしてしまい、結果的に苦しくなるのです。
だから、認めてしまいましょう。
「卑しさがあってもいい」と見つめるのが、癒しの本質の一部です。
こんなダジャレでも、癒しのヒントになればと思います。