今日はなんだか沢山人が死にますね。
ZARDの坂井さんが亡くなったり、松岡大臣が亡くなったり。
どうもどちらも自殺の疑いが強いようですね。
まぁ、すみません、不謹慎ですが私にはどうでも良い事です。
実は絶対にニュースになることも無く、当たり前のように世の中には気付かないところで死はおきてます。
当たり前です。
産まれ出る子供がいれば死んでいく人間がいるのは道理です。
その道理の通り、今日、私の祖母が亡くなりました。
職場で仕事をしていたらウチの親から電話がありました。
20時前のことだったそうです。
まぁ、年齢も91歳ですから、大往生と言っていいのでしょう。
ですが、なんなんでしょう、この腑に落ちない感じは。
理解はしています。実感が伴わない、といった感じなのですかね。
私は今日亡くなった祖母の初孫でした。
共働きの家庭だったこともあって、とにかく祖母には世話になりました。とても可愛がってもらいました。
当たり前ですが、全ての生物は産まれ出た瞬間から死というベクトルに逆らうことは出来ません。
でも、日常の中ではそれに気付かない、目を向けることすらしないことが多いように思います。
今日と同じ様な明日が続き、またあさっても続いていく、、、その連続性を疑うことが無いのではないでしょうか。
祖母が入院して、言葉として「延命措置がなんたらかんたら・・・」という事を聞いても、なんとなく明日にでも治って昔の通りになるんじゃないのか、って思ってました。
ですが、、、そうはならないのですね。
もっと会いに行けばよかったとか、もっと電話で話していればよかったとか、、、
結婚して嫁さん見せてやりたかった、ひ孫を抱かせてやりたかったとか、、、
これって自己満足なんでしょうね。
仕方が無いことです。戻ることは不可能です。
ただ、その時間の一方向性は他人事ではなく、それは自分も同じ事。
今日と明日、明日から明後日、、、その連続性は絶対ではないのですから。
時間を、、、大事に使いたいですね。戻ることは不可能なのです。
別にいつも忙しくするのが時間を大事にするということではないと思います。
自分にとって気持ちの良い時間を過ごせたらいいですね。
そういう意味で、ちょっと違いますが、、、
私は人を殺す人間と自殺する人間は嫌いです。
人を殺す人間は論外として、自殺する人。
絶対に避けられないものとしてやってくる死を自ら選ばないで欲しいです。
頑張れ!なんて事を言うつもりは全く無いです。
むしろ、自ら死を選ぶくらいなら逃げ出せ、と言いたいです。
逃げて何が悪いのでしょう!?
自ら連続性を断つ位なら、今あるものを捨てたって明日を続ける方が大事なのではないでしょうか。
私の同級生の中には、自殺した人間もいます。
言ってやりたいのです。
まぁ、生きているって悪くねぇぜ、って。
だって、、、陳腐な言葉ですが、生きたくても生きられない、生きて欲しいのに亡くなってしまう人がいるのですから。
ん~、、、帰って来てから腹が減らなくて、とりあえず飲んでいるうちに酔っ払ってしまったようです。
収拾がつかないので、、、この辺で。
当たり前のようにやってくる明日。
これを大事にしたいです。