令和4年7月29日晴れ 古い記録から
私が3歳の頃の事、まだよちよち歩きの時と思う?。母に手を引かれて
母親の里稲光(いなみつ)に、行った時の事です。山口から稲光にいくには、往還【県道】を通って行くのですが、近道の田んぼの畦道を通っていきました。冬前の寒い時でした時 幼な心にも・私はうきうきした気持ちと、気ぜわしさを感じていました。母も同じ心だったと思う。 畦道の途中に一寸した溝があって、私は怖くて躊躇していました。すると母は振り向いて、私を抱て其の溝を跳び越してくれました。其の時の記憶が60年ごの今、蘇ってくるのです。其の時の母ちゃんの胸のぬくもり・と優しさが伝わってきます。
母は今この世にはいませんが私の心の中に、はっきりと生きています。母とくのがへら(私の家の山)に、薪とりに行った時のことです。母の薪の中に、ムカデが居て二人で騒いだこと。私が薪を担ごうとすると重くて、担げませんでした。それで私の薪の一部を母の薪に入れました。すると母も重くて、担げませんでしたが何とか私も手伝ってやっとの思いで担ぎました。 そうして二人で休み休みに、我が家に帰り着きました。
高2年の時・父が無能だと父に言いました。其の時父は私に何も言いませんでした。すると母は目に涙をいっぱい貯めて、私に言いました。 父ちゃんが朝は1番に起きて、田んぼの見回り・牛の餌かりに行き、冬の人の働かない時山で炭焼きをして、売ったそのお金で子供を皆中学・高校まで学ばせているのよ。周りを見てごらん、山口でそんな家がどこにあるか?。と言って私を諭しました。
現在の私が在るのは、父の無言の教えと、母の目に光る涙が私を育てたのです。父は子どもの時に丁稚奉公に行き、其処の手伝いをして
豊津中学に行っていました。がその苦しさに耐えきれずに、中学を止めて、家に帰って来たのです。後で其れをどんなにか、後悔したと思います。其の後悔を自分の子には、絶対にさせなかったのです。
私が高校生の時に、農繁休暇を知らせず遊んでいました。家に帰って見ると親友の岡君が、母親と家に手伝いに来ていました。其の時も父は私に、何も言いませんでした。 二季秋の忙しい時には、猫の手も借りたいと言います。
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