たまさかの出会い

定年後、福岡に移住し、福岡の食と自然と歴史散歩を楽しんでいます。

四王寺山一周

2021-03-20 10:16:25 | 低山歩き

3月15日 今年2回目の「四王寺山」に行ってきました。

今日の行程のコースタイムは、約5時間です。

今回の目的は、5時間歩き通せるスタミナがあるかの確認です。

[ 行程 ]

西鉄都府楼前駅 → 坂本八幡宮 → 九州自然歩道 ( 大石垣・水城口跡 )→ 毘沙門堂 → 大城山山頂 → 野外音楽堂 → 百間石垣 → 鮎返りの滝 → 大原山 → 遠見所 → 焼米ヶ原 → 増長天礎石群  → 馬責め → 岩屋城跡 → 大宰府市民の森 → 大宰府政庁跡 → 西鉄都府楼前駅

ほぼ、赤い外周線沿いに歩きます。(「鮎返りの滝」手前にあった四王寺山の案内図)

 

8時30分 西鉄「都府楼前駅」出発

菜の花越しに、これから登る「四王寺山」が見えます。

    

坂本八幡宮で、本日の無事を祈願!

    

大石垣

    

10時10分 毘沙門堂到着

    

この後、大城山山頂を経由し、野外音楽堂へ

    

舗装道路を少し歩き、百閒石垣方面に!

    

    

この急坂を下りると「百閒石垣」の上に出ます。

    

百閒石垣

    

「百閒石垣」を過ぎ、一般道を少し歩き、県民の森の舗装された道を少々歩きます。

    

程なく「鮎返りの滝」が見えてきました。

    

この後すぐに、山道に入りました。

    

    

「大原山」山頂です。

    

土塁の跡を歩きます。

    

遠見所からの眺望。 九州国立博物館の屋根が、良く見えます。

    

焼米ヶ原を過ぎ、一般道を渡った所に九州自然歩道の入口が有ります。

    

発掘調査が行われている「増長天礎石跡」です。

現在、大野城跡では、ここ増長天礎石跡を含め8地区に70棟以上の礎石建物が確認されていおり、その多くは、高床式倉庫と推測されています。その用途は、食料の備蓄、及び、武器庫等と考えられているようです。

    

この後は「岩屋城跡」を経由し下山します。

    

「岩屋城跡」への道に出ました。

    

岩屋城の戦い天正12年(1584年)鹿児島の島津氏は竜造寺氏を下し九州統一に向け進軍。島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢20000余人が出陣。筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。

岩屋城には763名の城兵が籠る。1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。

籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死自害して戦いの幕は降りた。

一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった戦いでした。 (wikipediaより)

    

岩屋城跡からの眺望。大宰府政庁跡が眼下に見えます。

    

大宰府市民の森の中を通過。

    

13時35分 大宰府政庁跡到着。 後ろに、四王寺山が見えます。

    

この後、西鉄都府楼前駅まで歩き、帰りました。

体力的には、問題なく歩く事が出来ました。


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