近代以降の東北を象徴するコトバとして夏の甲子園球で全国優勝をはたし
大会旗が初となる白河の関を越えた事を大々的に報道されたことは記憶に新しい。
かって東北はみちのく(道の奥)と呼ばれ明治維新後には「白河以北一山百文と称された。 戊辰戦争に始まる近代日本の歩みの中でこの東北の地は歴史の中で如何に位置図けられ歩んできたかについてその歩みを考えてゆくのが今回のテーマだった。
以下はわたしの授業レポートである。一山百文の山はマウンテンの意味ではなく、(ひと盛り)の意味だったのではなかろうか、バナナの叩き売りなど露天商の買(ばい)の一種だったと想像する。であるから山が安価である、つまり土地に価値が無いという意味ではなかった。そこに住む人達を侮蔑する意味合いが強かったのではないか。
東北は西南(薩摩や長州)や関西関東などから比べて辺鄙な処としてのイメージが強く、東北人は映画やドラマなどでも愚鈍な人としてズーズー弁を話し笑われるキャラクターとして定着してきた。
また東北人自身も関東圏以南の人達に言葉の劣等感を抱きコミニュケーション能力の足りなさなどに劣等心理が定着していた今もこれは厳然として残っている。
以前、大阪商工会議所会頭で有名洋酒メーカーの社長が上から目線で東北全体をを「熊襲(くまそ)の土地」と言って(実は熊襲は九州地方の先住民で間違い)東北全体から猛反発を買ったことが有ったように、とにかく未開発の野蛮な土地とのイメージが全国的に浸透していたようだ。
近年東京電力が自らの消費地近くの東京湾周辺でなく遠く離れて電力損失も大きい東北電力管内の福島県にわざわざ原子力発電所を立地し、あまつさえ津波に対する対策を不十分なまま運転して全世界未曾有の東日本大震災による大津波によって浸水し世界的原子力事故を起こしフクシマを世界的に悪い意味で有名にしたのも陰には一山百文の心理が有った所以ではないか。
また、ある復興大臣が東日本大震災の発災を「東北で良かった」と発言など枚挙にいとまがない。こうした社会認識とは別に国は京都に第三高等学校(旧制)仙台に第二高等学校を作ったことや仙台に帝国陸軍第二師団を置いたことなどから東北を中央の背後地として扱ってきたことも事実である。
過去の東北蔑視はその発言者が誰か分からず正しい認識に基づかないイメージそのものであったと考える。
私がとっていて時々投稿もさせてもらっている、地元紙「河北新報」の社是は明治維新以来白河以北一山百文と軽視された東北の開発と振興社是として、題号は河北新報とし、東北の人達よ、こうした侮辱的な文言に奮起して天下国家に寄与でき、東北の発展を尽くす人材育成事業を進めてゆくという目的だったようだが、それは、今やすでに達成されており、題号と社是は現在の情勢に合わなくなっているが文化向上の為、河北文化賞や河北美術展、河北書道展事業など地方の文化向上に寄与した活動を進めていることは社是を守り通していると言えよう。