丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

上の義兄のこと

2008年10月17日 | 個人史
先に書いたように、義兄が2人、実兄が2人の5人兄弟の末っ子として育つ。当然ながら生まれたときにはすでに上の4人はいた。全部で8人家族。これが一番多いときの人数。

中でも上の義兄はすべての兄弟の一番上になるのだから、他の兄は「兄ちゃん」という言葉の上に名前や名前の一部をくっつけて呼ぶのだが、この義兄だけはすべての兄弟(時には父母からも)から「おにいちゃん」としか呼ばれなかった。今でもそう。
ただ親戚だけは名前で呼ぶのは当然だが。

工業高校を出て大手の電機会社に就職。先年定年で退職してからは野菜を作ったりして過ごしている。数学が得意で、当然手先も器用でいろいろ遊び道具も昔からよく作ったり。今で言う「バンカーズ」というゲームももう50年も前に手作りで作っていた。囲碁が趣味で会社の囲碁大会で優勝したこともある。
就職と同時に家を出て会社の寮に入る。僕がまだ小学生の頃だったが、兄たちと寮に訪問したことがあったが、男の部屋らしく部屋の壁にはヌードポスターが貼ってあって困ってしまったことを覚えている。

バイクにも乗っていたが、事故を起こして入院してからは乗っていないような。結婚してまなしの頃だった。事故までは夫婦二人乗りで家に来たりもしたが、事故以降は自転車で来るようになった。結婚は祖母が亡くなるちょっと前で、亡くなった後に娘が生まれた。一人娘で、奥さんの家系でも他には子どもはいないよう。万博の年に生まれた箱入り娘もしっかり自立して、今では女男二人の子どもの母親となった。

義兄とは13歳年が離れていて、高校卒業と同時に家から出て行ったため、一緒に生活していた記憶は少ない。

兄弟みんなが頼りにしていたことは間違いないが、上の実兄が「長男」であるのに対して複雑な立場であることは間違いない。父母の葬儀の時は遠慮もあって喪主の座は長男に譲ったが、みんなの意見もあって遺族挨拶を行ってもらった。
亡くなった義兄の父親にそっくりになっているのだが、そのことを知っているのが僕だけになっている。義兄のところには彼の父親の写真はないようだ。母が亡くなったときに探したけれど見つからなかった。