丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小学2年生

2009年03月22日 | 個人史
小学2年生は「ボーン校舎」と呼ばれる校舎で1年間過ごした。2階建てで、1階が2年生、2階が3年生。当然ながら2階に行くことはまったくなかった。この学校では、1・2年とクラス替えも担任の交替もない持ち上がりだった。もっとも担任の女性のM先生はちょうど2年生の1学期に出産休暇に入られたので、1学期の間だけ産休講師の先生に替わられた。

2年間の通知表の、2年の1学期だけ筆跡も違えば書かれた所見も実に簡素な内容だった。その産休講師の先生のことはほとんど覚えてはいないが、所見は覚えている(というよりも、通知表はすべて保管していていつでも見られる)。曰く「もう少し落ち着いたらどうでしょう」

実に落ち着きがない子どもだったと思うし、なまじ人より早く理解することが多かったのですぐに答を言ってしまったり、授業では実に迷惑な存在だったと思う。そんなことで、一度は授業の邪魔だから、と教室を追い出されたこともある。運動場に出て行け、と言われて、呼びに来るまで一人でぽつんと運動場にいた。

担任のM先生は上級生の家庭科も教えられていて、兄のクラスの家庭科も受け持っていたので兄もよく知っていた。

クラスとしては男女関係なく仲の良いクラスで、女の子の遊びでもある「おじゃみ(関東ではお手玉と呼ぶか)」とか「おはじき」などもよくやった。折り紙でいろいろな物を作ったりとかそういう室内遊びも多く流行っていた。もちろん運動場でのドッチボールなどもよくやっていて、僕はあまり球技はできない方なのだが、朝、登校すると加わるのが当たり前のように組み分けをされてドッチボールに加わるのが常だった。

2年生が終わった段階で転校することになるのだが、ちょうどこの学校では2年から3年に上がる時にクラス替えがあるので、学年の終わりがクラス解体の時になり、年度の終わりに「お別れ会」が持たれた。この年度で転校するのが僕を含めて3名いたこともあるのだが、クラス替えだからちょうど都合もよかったかも。

みんながそれぞれ出し物をするのだが、この部分、「ちびまる子ちゃん」でもそんな場面があったようだがよく似た雰囲気かも。結局僕は出し物を思いつけず、他の人の出し物に混ざる形になったのだが、最終的にはやらなかった。かわりに司会に選ばれてそちらをつとめる。冬休みの工作で僕の作ったマイクスタンドが優秀だったこともあったのだが(実は兄がほとんど作ったことを白状しよう)。

最後に転校生一人ずつ挨拶で、僕は挨拶も兼ねて、当時好きだった坂本九の「上を向いて歩こう」を歌った。この時代、学校で歌謡曲を歌うことは禁止されていたのだが、転校する特例ということで認めてもらった。

このとき一緒に転校することになったもう一人の男子の名前がやけに印象に残っていて、彼の名前の苗字をペンネームにしたこともある。後にいろいろなペンネームを考えたりしたのだが、その名前が一番気に入った名前で、中学生時代に小説を書いたりするときに使っていた。パソコン通信でハンドル名をつけるときに今の名前にしたのだが、惜しいのでそのペンネームをパスワードにしたりしている。何でその名前が気に入ったのか、その秘密に気がつくのはかなり後の話だが、ちゃんと理由はあった。当然ここには書けないが。

転校してから当時の友だちと会うことは一度もない。
もっとも幼稚園のある友だちとは、友人の友人という形で一度再会したことはある。小学校で先に転校した子が、転校先に学校にいたというのもあるがあまり一緒には遊んでいない。

そうそう、先に書いたように、まったく友人でもないのに同じ時期に同じ小学校の同じ学年で過ごしたという人二人とは後に偶然出会うことにはなるのだが。