ひびこれこうじつ

とりとめなく、日々の覚書です。

彼岸花、もしくは曼珠沙華

2024-09-30 17:09:12 | お出かけ

“山の中を歩いていたら、道に迷ってしまった。

日も傾いて、途方に暮れたころ、目の前が開けて、池が現れた。

夕陽を浴びて金色に輝く池の周りを、彼岸花が埋め尽くしている”

 

中二病に罹患していたんだろうか。

こんな場面を小説してみたいと、ずっと若い時に思ったことごあった。結局、これまで小説って書けたことないんだけど、その池の想像上の光景だけはずっと脳内HDの片隅に残っている。

基本的に聴覚型だと思うけど、へんに視覚に執着することがときどきある。

 

それで一度、あたり一面を埋め尽くす彼岸花、という光景を見てみたいと思っていたが、腰が重く、ついに今日思い立って、埼玉県の巾着田という彼岸花の名所に行って来た。

最寄駅は八高線の高麗駅で、飯能で乗り換えて二駅でつく。

車窓から景色を眺めていると、飯能駅も、その次の東飯能駅も普通に街中で、そうするとその巾着田の彼岸花の名所も、住宅地の一部を公園にしたような場所なのかと思ったら、東飯能駅を過ぎたら、線路が急に山中に分け入って、降り立った高麗駅は、すっかり山里の雰囲気を帯びていた。

 

巾着田公園までの道は、細く入り組んでいるけれど、彼岸花目当ての人が三々五々そぞろ歩いていて迷いようがない。歩道と畑の境目に、家々の敷地の端に、昔ながらの作りの農家の佇まいや、うっすらと茶色い絵の具が混ざりはじめたような、夏疲れした緑を背景に、彼岸花が早くも咲いていてる。時折りコスモス風に揺れて、初秋の風情を漂わせている。

そういえば、父はコスモスが好きだった。

 

思えば私の父は、休日に家族を連れて、車で、やれ桜だ、コスモスだ、紅葉だと、花見がてらに遊びに行くのが好きだった。私のプチ放浪癖は、間違いなく父譲りだ。もし父が生きていたら、連れて来てあげたい気もするが、車じゃなかったら渋い顔をするだろう。

あいにく私は、車嫌いのプチ乗り鉄でもある。

 

人に続いてしばらく歩いていくと、「水天」と書かれた石碑があり、このあたりが高麗川の氾濫やら飢饉やらで苦しめられた土地であったことを知る。だいたい彼岸花という花は、なんとも物悲しく、禍々しくもある花で、その群生地で有名になったこの土地は、その先入観もあって来る前からなにか悲しげな土地であるかのように思っていた。その勝手な想像がしっくりしたことに、なんだかますます物悲しくなった。

やっぱり彼岸花は、悲しい花なのだ。

そもそも毒がある。

その名前も、その炎とも血とも見える色も、異様な立ち姿も、常世から咲き現れたかのようだ。

 

巾着田の会場は、駅からほんの10分ほどだった。

彼岸花祭りではなく、曼珠沙華祭りというらしい。

メイン会場に入ると、それはそれは見事な,まるで赤い絨毯が敷き詰められたかのような光景だった。

”祭り”というだけのことはあって、たくさんの人が楽しげに、あたり一面、曼珠沙華に埋め尽くされた小径を歩いている。ざわめきのあいまをぬって、てくてくと歩いていると、そのあまりに人工的に生え揃った曼珠沙華の姿や、人々の明るさに,私が見たかった曼珠沙華は、これじゃないと思ったりする。

 

まあ、いいか、と思いながら、テントが集まるお祭り広場的なところに行って、インド料理店が出店しているテントで,ケバブサンドを買って、お昼にした。なぜか割り箸がついて来て、日本人の箸へ信頼とそれをさらっと受け入れるインド人のフレキシブルさに、ちょっと感動した。が、ソースがたっぷりのケバブは、確かに食べにくいけど、箸で具とパンを分けて食べても美味しい食べ物でもなく、かぶりつかないとなんとも味気ない。食べ物と食べ方は密接に関係していると痛感した。

 

で、帰りの電車の中で調べたら、「曼珠沙華」というのは、サンスクリット語で、「赤い花」という意味だそうで、釈迦が法華経を説いたときに、お祝いとして天から降ってきた花なんだそうだ。

……うーん、そう言われると、何やらめでたそうな気もする。

インド的なじゃんじゃかした賑やかさには、この花の赤も不思議な形も、なんかマッチしてるんじゃないか?

って、名前にイメージを振られ過ぎだろう、私。

そういや、お昼はインド料理だったな。

 

その後、公園近くの古民家を見学し、母のデイケアの帰宅に間に合うように、サクサクと帰路に着いた。

なんだか見たかったものが見られたような、見られなかったような、ちょっと不思議な感じの小旅行だった。


山居図

2024-08-24 17:18:32 | art

東京博物館の神護寺展をみた後、時間があったので通常展をぶらぶらしていて、たまたま、松林桂月という人のの山居図という絵を見た。

六曲一双の水墨で、最初は墨色といい筆遣いといい、ゴツくてあんまり好きじゃないな、と思った。中央に、やけにリアルに小さな家が描かれていて、白髪白髯のお爺さんが静かに窓辺に座っている。

玄関は開かれていて、漢詩が書かれた掛け軸がかけてある。

 

あー、この家、いいねー

でもこの絵の見どころ、多分そこじゃない……

 

と、思いながら前を通り過ぎ、フロアを軽く一周して(途中で焼き物の壺に、竹と雀が描かれたのがあった。雀がすごいリアルで、え、これ、うるさそう……と思った)、ちょっと疲れたので、真ん中のソファに座ったら、先ほどの山居図の真ん前だった。少し引いた位置からみた山居図は、墨の濃さや、筆のうるささが全く気にならず、本当に山の中のようだった。

離れて観るものだったか……

と、あらためて目を走らせると、中央、右隻と左隻にまたがって、白い道が描かれていた。その道に従って目線を動かすと、件の山居に導かれて、開かれた玄関から中にすうっと吸い込まれた。

あ、お邪魔します……

残念ながら一瞬のことで、中の様子まではわからなかったし、お爺さんともお話できなかったけど、またちょっとした不思議体験ができて面白かった。

こういうの、わくわくしちゃう。

『雨柳堂夢咄』みたいじゃん。

 


没入体験

2024-07-28 11:48:51 | art

先日、母にショートステイに一泊してもらって、あっちこっちと遊び回ってきた。

「船に乗りたい」

などとふと思い、隅田川の水上バスに乗ってお台場に行こうと思って、浅草に行けばなんとかなるだろうと思って出かけたのだけれど、船の時間が合わず(どうしてこう、旅程を立てるのが下手くそなんだ)、紆余曲折あって、こんなものを見てきた。

 

『モネ&フレンズ アライブ』

https://monetalivejp.com/tokyo/

 

最初都合よく無料だと思って会場に行ったら3000円だったので、引き返そうかとすら思ったのだが、なかなか面白い体験だった。

”没入型展覧会”と銘打たれるだけあって、本当に絵画の中に入っちゃったのかな、みたいな不思議体験ができる。実際その場に立っていた画家の目には、世界がこういうふうに見えていたんだろうか。

 

この体験で思い出したのが、三井記念美術館で6月に滑り込みで行った展示会で、

『茶の湯の美学』

https://www.mitsui-museum.jp/press/release/release_240418.pdf

 

『卯花墻』という国宝の茶碗を見た時のことだった。

https://www.mitsui-museum.jp/collection/collection.html

 

思いがけないことに国内で作られた茶碗で、国宝に指定されているものは3つしかないそうで、そのうちのひとつという、やんごとなきお茶碗であらせられるのだが、

 

「あー、なんか、いい感じに歪んでますね?」

と思ったくらいで、特に何がどう、という感想もなく通り過ぎた。

 

私はしつこい性格なので、展覧会とかは、一度見たあとに引き返したりする時があるのだが、この時も全部見終わった後に、なんとなく引き返してまたこの『卯花墻』を見た。

 

この茶碗には、和歌の箱書きがある。

 

山里の卯花墻(うのはながき)の別つ路

雪踏みわけし 心地こそすれ

 

多分、そんなに特別な歌ではない。

卯の花を雪に見立てるのはありきたりなテーマだし、

「うん、そうだねえ」

と、素直に共感できるタイプの歌だと思うのだけど、それを読んだ後、もう一度その茶碗を見たときに、一瞬、その茶碗の景色に吸い込まれたような気がして、あっ、っと思った。

私は、その山里の、卯の花の咲きこぼれた小道にいた。

 

そして私の前には、傘をかぶった墨染の衣の僧がいた。

道は細く、雪のような花をかき分けるようにして歩いていたその背中も、花の小道幻想と共に、一瞬で消えた。

 

美術館は、時々こういう瞬間があるから面白い。

 

 

でも、今回のモネのように、半強制的に絵画に引き摺り込まれるのも、なかなか悪くない体験だったと思う。

BGMに同時代のクラシックがかかっていて(選曲はメジャーどころによせすぎたきらいもある気がしたけど)音響も良くて、なんだか海外を旅行をした気分になれた。

旅程を立てるのが下手くそでも、まあ、いいこともある。

 


手編みの靴下

2024-02-28 19:48:06 | 日々のこと

「今度、入院することになっちゃって、一応、三泊四日って言われてて、そんなに心配しなくていいって先生は言うんだけど、ついいろいろ調べたらもう悪い方にしか考えられなくて、不安で死にそう……」

と、友だちに愚痴ったら、

「いいよ、いいよ、泣きなさいよ」

と言われて、ほんとに涙が出てきた。

でも泣いたら少し、楽になった。

ああ、人間ってほんとに弱い。

 

次に会った時、その友達が、

「入院中、足が冷えるから」

と言って手編みの靴下をくれた。

なんか優しさが詰まってて、また泣けてきた。

手編みって素敵だあああああ。

 

で、そんなに大騒ぎして入院した割には、あっさりと一泊二日で帰ってきた。

予定していた手術よりも簡単な手法で切除すべきものが切除できたのだそうだ。

一泊だったけど入院中ほんとに足が寒くて、でも靴下があったから平気だった。

ありがとう♪

 

 


他者の善を悲しむ

2023-11-01 15:38:01 | 日々のこと

「ええん、ジェラしい、ジェラしいよう……」

と、ライン電話の向こうでぽんぽんが訴える。

大学二年の芸術祭で、おともだちと二人展をしたのだが、そのお友達の絵がたいへん素晴らしく、完成度が高く、一緒に展示したぽんぽんは可哀想に、芸祭期間中、お客さんの反応や絵葉書の売れ方や、何もかもから自分との差を見せつけられ続けたらしい。

極め付けに学長がやってきて、そのおともだちに、

「いい絵だね、頑張ってね」

と、言ったのだそうだ。ぽんぽんの絵には一瞥もくれずに(いや、そんなことはないんだろうけどさ、目には入るもんw)。

「そうだねえ、よしよし……」

としか、こちらも言いようがない。

私も見に行ったけど、確かにその実力差は歴然だった。でも、そのお友だちとの展示までのあれやこれやや(そう、ちょっとあれやこれやあった)、ぽんぽんが今度の絵を描くまでの紆余曲折を知っている身としては、そこに身贔屓をたっぷりと上乗せして、内心、ぐぬぬぬぬ……と思う。

「才能のある人ばっかりでさ。どうせ私なんてもともとセンスも個性もないしさ……」

と、本人も詮なきことと知りながら、でもまあちょっと言葉にして吐き出せば、少しは楽になるんだろう。うんうん、と聞きながら、そういえば、と思い出した。

「この間、『100分de名著』が、アリストテレスの二コマコス倫理学だったんだけどさ」

「ニコ……?」

「二コマコス」

「何?」

「知らんけど。そこでさ、アリストテレスが嫉妬について、『他者の善を悲しむ』状態だって説明してるって言ってたよ」

「ん??」

「その人にとっての良いことを、怒るのでもなく、恨むのでもなく、悲しむっていう言い方が絶妙、みたいなことを、解説の先生が言ってた」

「ふうん……悲しいかあ」

「うん」

ぽんぽんはどう思ったか知らないが、私はこの「ぐぬぬぬぬ」は、悲しみっていうのがぴったりくるな、と思った。ギリシャ語は知らないが、古語の「悲し」の第一義は「いとしい、かわいい」なのだ。相手が持っていて自分には与えられないその善は、自分が本当に「愛しい」と思うものなんだよな。

「ま、大丈夫だよ。もう浪人時代からこんな目にばっかりあってるんで。落ち込み方も知ってるし、立ち直り方も知ってるからね」

と、ぽんぽんがクソ生意気に言う。

まあ人生のほんとの嫉妬ってまだまだそんなもんじゃないけどさ、大事なのは絵を描くことじゃなくて、その経験なんだよな。本気で悲しいと思う経験って、本気で大事なことからしか受け取れない。本気で大事なことがある人は、本気で、深く生きられると思う。

「だけどさ、雑貨はよく売れたんだよね。ちっちゃいキャンパスとか、焼いたお皿とか、絵葉書とか……」

と、変なところで変な才能を発揮したぽんぽんではあった。

 

で、二コマコスとはアリストテレスの息子の名前で、二コマコスがアリストテレスの倫理学についてまとめたので、そのように呼ばれたそうだ。