数多いハルキストの友人たちの薫陶の賜物で、『ノルウェイの森』『騎士団長殺し』で味わった挫折を乗り越え(しかし春樹さんのエッセイはどれもおもしろかったのだが)、『羊をめぐる冒険』『海辺のカフカ』で、ようやく、
「なるほど……」
と、ちょっと村上ワールドの魅力に気づき始めた私だが(特にカフカの時空を超えるグルーヴ感はたまらなかった)、そうなると他の作品よりも先に、これを読んでみたいと思ってしまった。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
河合隼雄先生のこともかつては大いに誤解していたのだが(というか、ユング心理学や箱庭療法のことを誤解していた)、養老孟司先生が、
「ああいう、本当の意味での大人は、今はいない」
というような意味のことをおっしゃっていたのを聞いて、あらためて読んでみると(中沢新一さんとの仏教関係の共著がとてもよかった)本当にすごい人で、
「あああああ、お会いしたかったあああああ」
と思う。
何がすごいって、包容力と忍耐力かな。
わからないこと、つらいことのその先に必ず良いことがある、という信頼感と、その良いことが必ずしも人間という種の思う「良い」ことではない、ということに耐えられる底力。
ああ、大人だな、と思う。
で、この本はというと、ああやっと今、私に読む準備が整って読むタイミングになったんだな、と思う。喉元に詰まっていた栓がスッと抜けて腹に落ちていくような快感を味わえる本に出会えると、
「おお」
と思う。
かつて書いた『とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑』というブログは、多神教ベースの日本人的自我と一神教ベースの西洋人的自我は違うので、一神教的自我の解体を目的に書かれた奇跡講座は、日本人的自我にとっては都合の良い誤解が生じて逃げ道ができてしまう、ということを書きたかったのだが、この本の中で、日本人には個人として病み切る力がない(環境全体で支えてしまう)ということが書かれていて、そう、そういうことが言いたかったんです、と思ったり(「相対化されないエゴがベタッと迫ってくる」という村上さんの言葉を読んで、そういうことだったのかと、長年の気持ち悪さが整理された)、人間は誰しも病んでいて、その病みを(あるいは個人ではなく社会の病みを引き受けて)表現する力と技術があればそれを芸術として昇華させることができるし、芸術というのはそういうものだ、という話を読んで、ものすごく納得したり、心理療法というのは治るのを待つもので、相手に共鳴しながらその共鳴している自分をみている自分の目線が必要なのだとか、村上さんは書いている時には結末はわかっていなくて、物語が生まれてくるに任せていて、書いた物語の意味は自分でもよくわかっていない、とか(マジですかw)……いや背幅1センチ弱かつ余白かなり多めの本なのに、びっくりするくらい深かった。
巨大な深海魚の会話をこっそり聞いたような気分だ。
この本は、『ねじまき鳥クロニクル』の直後の対談を収録した本で、随所で『ねじまき鳥』に触れられているのだけど、ちょっと怖そうな本なので読むのに勇気がいるなあ。
まあ、またタイミングも来るでしょう。