ひびこれこうじつ

とりとめなく、日々の覚書です。

動物園

2021-02-24 06:44:33 | 日々のこと
「犬が飼いたい」
とおばあちゃんがことあるごとにいう。
気持ちはよくわかるが、この家族構成でペットを飼うのはなかなか難しい。
三人いるよけど、ペットに責任が持てるのが私だけだからだ。
おばあちゃんは、お世話に関しては戦力外だし、
ぽんぽんなんかほとんど家にいないし、これからもどんどんいなくなるだろうし。

だから、
「ペットは無理だってばよ」
と、毎回言うのだが、本当は私だって飼いたいんだ。
うちはずっと何か飼ってたしね。なので、
「犬より猫が飼いたい」
と言ったら、ぽんぽんが、
「鳥が飼いたい。ふくろうとか」
という。
さすがハリポタ世代だ。それはさすがに飼ったことない。


「いいねえ、全部飼っちゃおうか」
「でも鳥と猫は相性悪そう」
「鳥の方が先にいると、大丈夫みたいだよ」
「へえ、いいねえ」
「いいわねえ」
「楽しそうねえ」

三者三様の脳内妄想動物園。

飛行船

2021-02-21 08:53:43 | 日々のこと
テレビを見ていたら、山梨の、弟子を育てている宝石職人さんが、穏やかな笑みを浮かべて、
「辛い気持ちで仕事したって、いいものはできないんですよ
特にこの仕事は相手が自然のものだから。石が喜ぶような仕事をしないと」
っておっしゃってて、ふっと肩の力が入りすぎていることに気づいた。

ぽんぽんの受験のこともあって、
「私も頑張らねば」
みたいに、前のめりになって、暗礁に乗り上げてた。
それなのに意地になって船を進めようとして、
「そうだ、こういう風に書いてみたら」
と思って書いたものが、その前のものとほぼ同じだった、とか、洒落にならない。
座礁してる船をゴリゴリ進めちゃダメだってばよ。穴開くじゃん。

精神世界のことは、簡単に書こうとすると怪しくなる。
理詰に書こうとしてもさらに怪しくなる 。
要するに、私が怪しいのだ。
だから他人が何を考えているかも気になる。
他人なんかいないのに。
石が喜んで輝き出すような仕事。
書こうとしているものもそこにあるはずなのに。

第14章2節は、「幸せな学習者」
思いつめ、追い詰められているように感じる私は、正しく学習していない。

T-14.II.2:3
単純さとは、ゆがんだ心にはきわめて難解なものである。

荒海を進んではいけない。
ふわりと空を飛ばないと。


『嘆異抄』

2021-02-18 15:36:54 | 
本棚でじっくり熟成され、すっかり茶色になった岩波の青帯『嘆異抄』。
いつか読むつもりで買っておいたのは間違いないが、古本だったのか、貼った覚えのない付箋まで貼ってある。

コースと真宗はすごく近いとずっと思っていて、いつかは読まねばと思っていたのだけど、哲学も精神世界も、最低限の知識をかき集めるので精一杯で、原典にあたるのはとうぶん無理、と思っていた。
でもこの『嘆異抄』は薄い。
しかも目の前にある。
解説と広告をたっぷり入れてようやく背表紙が7mmくらいか。
古文にはそれなりに耐性があるはず、と思って立ち向かってみたら、最初の解説が大変優れていて、それを念頭に置いておけば流れが掴める感じだった。

前半は唯円さんによる親鸞の言葉の聞き書き。
後半は著者とされる唯円さんの「嘆異」で、主に知識偏重と信心偏重の偏りに向けられていて、これはコースでも良く起きる。
唯円さんは、
「教えの文章には真実と方便が混ざっている、だからそれをちゃんと読み解かなければならない」
「何よりも大事なのは、この教えを自分のこととして受け取ることである」
という。

テキストの解釈には言葉の限界がある。
真実を言い表すためには文脈に頼り、比喩にも頼る。
文字知識との付き合い方や、もともと持っているエゴの脂質によって、知識偏重と信心偏重、自分が振れ易い方に容易に触れる。
しかし、自分が本当に赦す時に、実際に心や体に起きる平安や、違和感や、怒りや、屈辱や、そういう体験に照らすことで超えることができる。

これも同じだよねえと思うと、なんだか、唯円さんがすごく身近で、タイムスリップした気分になる。
お茶菓子を持ってお住まいをお尋ねしたい。



『なぜ世界のエリートは美意識を鍛えるのか』

2021-02-16 14:22:39 | 
なんか途中で読めなくなってしまっていたのだけど、読みかけ本一掃週間につき(いつそうなった)、ターボかけて読了。
理性vs感性をバランス良く育てることが、今の時代とても大事で、かつ、最後にものをいうのは、真善美に基づいた直感、という話だろうと思った。
ビジネス本だから私には全く縁がないけれど、ビジネス界では美意識をどう捉えているのかなと気になって買った本。
文化に育てられた美意識がなければ、自分の主観はいくらでも騙せると思うから。

おもしろかったのは、途中で、アイヒマン裁判や某宗教団体の事件が考察されていたところ。
その組織の中に組み込まれ、そこに忠誠を誓い、そこで認められた人が、その組織の過ちに気づけるかどうかは、自分の中の美意識に違和感を感じられるかどうかだという話……だろうと思う。
さらにフラワーチルドレンについても書かれていた。
体制に異を唱え、改革できるのはその体制の中にいる者だけで、それを外部から否定して別のフレームを持ち出しても、結局何も変えることはできないという話……だろうと思う。どんな体制でも組織でも、ある程度成熟したその先は、うまくいかないから、あるいは気に入らないからと言ってちゃぶ台返しせず、美意識で調整していかなければ、いつまで経ってもちゃぶ台がひっくり返ったままで、美味しい晩ご飯は食べられない。

声高に何かを否定する、あるいは切り捨てるのは実は簡単なんだよな。
コースだったら、赦せ、っていうとこだよな。
そのゆるしどころを見つけるのが、美意識か(着地)。



『唯脳論』、再び

2021-02-15 17:43:00 | 
思えば去年の後半に、やたらと本を読む羽目になったのは、養老孟司の『唯脳論』を読んで、
「あ、ダメだ、私は精神世界を完全に誤解してる」
と、とんでもない衝撃を受けたからだった。
どうにも頭がまとまらなくて、夜中に起き出して本を読んだのを覚えている。

……のだが、なんでそんな衝撃を受けたのかが、なんだか曖昧で(おいこら)、
もう一度改めて読んでみることにした。

……のだが、やっぱり思い出せない。
それどころか、
「へえ、こんなこと書いてあったけ?」
の連続で、自分の記憶力のザル加減に衝撃を受ける。

もちろん、
「ああ、そうそう!」
というところもあったが、
「え!これは重要!なんでこれ覚えてないんだよ」
というところもあった。
その一つは、意識というのは、脳が脳を知る(脳神経同士で刺激を回す)。という行為の結果に生まれたのではないかという推論。
もう一つは、量子が粒に見えるのは視覚系、波に見えるのは聴覚系に由来するであろうという話。

とはいえ全体的に、自分の考え方の主軸が90度くらい傾いたのは、やっぱりこの本のおかげだと思い返した。
私が見ている世界は私の脳の仕組みを反映している。
それが(おそらくは時空を超えた)デジタルなデータであるのは、私の脳がデジタルに機能しているからだ。
自分のエゴがそういう仕組みであるということが腑に落ちて、随分軽くなった気がする。

で、
「そういえば、以前このブログに唯脳論のこと書いたよな」
と思い返して見たら、ちゃんとメモしてあった。

ああ、1番のヒットポイントはやっぱりここだったか、さすがにここは覚えてた、と、ちょっと安心した。