東京国立博物館 茶の美術(2/2)は、本館2階の茶の美術展示室の紹介です。
まず展示室冒頭のキャプションです。
トーハクでは、松平不昧や松永耳庵、広田不孤斎らのコレクションが主体で、それを季節ごとに取り合わ
せて展示されている。
松平不昧や松永耳庵、広田不孤斎についての説明。
まず、釜から
【山吹文真形釜】
形、枯れた鉄肌、味があって素晴らしい。
【古染付騎馬人物文蓋置】
縁のところ、使い込まれて剥がれたのかな? と思ったら ⇒ 土と釉薬との技術的な問題があったらしい。
・・・それを、日本の茶の湯の先人たちは、虫食いとして、逆に見どころとした・・・
絵柄も雑といえば雑 ⇒ でも、それを飄逸と捉える。
・・・うーん、なんと自由な見方、はたまた、弱点を糊塗しただけ?
当時の大名や豪商など、茶の湯をステータスとしていた茶人は、こうした唐物を、茶会で使って、自慢して
いたのかな? 客人も古拙さを美として理解できることに満足だったかも?
景徳鎮は、車でいえばフェラーリ、ブランド信仰は、強烈だった。
日本の茶人たちからの注文制作で作られた茶道具、多分、高値で取引されたでしょうから、売り手の景徳鎮窯
の方は笑いが止まらなかったか。
昔の中国で、夜間の勉学に用いる燈明の火皿を、蓋置に見立てたので、”夜学”という名称・・・茶の先人たちの名付けセンスがいい。
天啓赤絵は、天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵。
官窯ものの高雅で精緻な仕上げとは違って、素早い運筆や画面デザイン、染付と赤絵のバランスがいい。
今でいうと、アールブリュット/アウトサイダーアートのような感じの作品。
強いですね。
量産品なんですね、それゆえの素朴な趣が、茶人に高く評価された”とありますが
私は、可もなく不可もない作品です。 使うとわかる味があるのでしょう。
【竹茶杓 銘 稲羽州サマ】 ※上下がピンボケで見づらくてすみません。
たけちゃしゃく いなうしゅう
竹茶杓 銘 稲羽州サマ
片桐石州作 江戸時代・17世紀 竹 松永安左エ門氏寄贈
白竹を用い、すらりとした素直な姿に削られており、高い気品が感じられる。片桐石州は江戸時代前期の大名茶人。
「稲羽州サマ」と宛名を記した贈り筒が添えられている。かつて出雲の大名茶人・松平不昧が所持し、のちに松永
安左エ門(耳庵)の愛蔵品となった。
【書状(武蔵鐙の文)】
利休の書状です。 トーハクで見たときは、この書状の意味も解らず写真を撮っただけでしたが
Webで調べると、秀吉から切腹を命じられる8か月前で、秀吉との抜き差しならぬ状況が間接的に
にじみ出ていると思いました。
今週は利休の文、武蔵鐙について勉強しました。
この文は利休と織部の歌のやりとりや呼び方から二人の仲の良さが窺えたり、
また伊勢物語を踏まえていることから教養の深さを垣間見ることが出来たり、
また竹の花入の記述等々、興味深い点が多い為ことに珍重されてきたものですが
この文を、利休が切腹する前年であることに重きを置いて改めて見ると
秀吉との確執がいよいよ極まり、死を覚悟した利休の心情が伝わってきます。
竹の花入の最高傑作、これ以上はないものが出来上がったと、これは自身の
侘び茶の大成であると言われていますがわび茶のみならず自らの集大成と、
今までを振り返り感慨に耽っているような表現です。
また、小田原攻めが長くかからないだろうから終わるまで駆けつけなくてもいい
と言いながら、すぐに陣中で茶を差し上げたいという文言。
蠅が多くて嫌だと、たわいもない愚痴をこぼしておきながら、最後に蠅を打つ音
も慰みであると、わざわざ冒頭に書き加えていること。
親しい人もなく、小田原の山の家に移った利休は、このところの秀吉との間柄
からも既に切腹を考えていたでしょう。
孤独で、死を身近に感じると、実に様々なことが頭を巡ります。
もうすぐ結末を迎えるであろう自分の人生はどうであったか、親しかった人たちは
何をしているだろうか
そして1か月前に斬首されたばかりの愛弟子、山上宗二のこと…
ふと弱気になりそうな自分を、最高の花入が出来たと、自己肯定してみたり、
織部と今度会った時はどうもてなそうかと考えることで気を紛らわせたり
それも終われば蠅にまで意識をやることで現実逃避を図る…
(因みに漫画へうげものではこの蠅を金蠅=秀吉と位置づけており、そう見ても面白いです)
そして何より心の慰みとして、こういった会話を、織部と直接交わしたい、
いつでも訪ねてほしいという切実なる願いがひしひしと伝わってきます。”
前述の利休の書状で、利休が作ったという竹花入れです。(3種あり、織部に送ったものとは異なる)
「武蔵鐙の文」は古田織部へ、「園城寺」は利休の次男へそれぞれ別個に伝来するが、転々とし
松平不昧のもとに、そして最後にトーハクに寄贈された。
この園城寺の竹花入れ、最初は秀吉に献上されたが、秀吉が投げ捨てたという伝聞がある。 仕方なく
利休が持ち帰り、次男に渡したもの。
【織部開扇向付】
利休と同じく、古田織部も既成概念を逆転し、破壊して、そこに立ち現れてくる斬新さに
今までにない美を見出している。 現代アートのスタンスと同様なものを感じる。
利休や武野紹鴎が推進した「破調の美」または「破格の美」という概念が息づいている。
【色絵祥瑞桃果宿禽文皿】
【黄瀬戸草花文平鉢】
【呉須赤絵丸文徳利】
【志野草花文四方酒吞み】
【灰釉酒呑】
日本酒好きには堪らないぐい吞み。 古唐津で一度飲んでみたい・・・ささやかな願望。
【魚屋茶碗 銘さわらび】
【志野茶碗 銘 振袖】
2021年3月12日のトーハク茶の美術は以上ですが、今回、過去のトーハク茶の美術の写真を見返していたら
オオっと再発見したものが多く出てきましたので、次回はそれを紹介したいと思います。
秀吉って結局いやーな権力者だったんだなーと感じつつ
志野焼の香合にビビビっときて、織部の扇形の器(大きさわかりませんが)醤油皿にしたらワサビ盛るところもありそうだなーと思い、古唐津のぐい飲みで日本酒呑みたいに激しく同意いたしました。
過去のトーハク写真の記事予告も楽しみにしております
頭の中に、ちらりと残像があるだけで、同じような物を見た時の印象が変って、
骨董市で頭の中の残像と照らし合わせて楽しんでいます。
ここでは志野草花文四方酒呑が欲しいなあ、と思いました(^_-)-☆
織部の向付、調べると、高さ4.8cmあり、刺身が
しっかり盛れる大きさです。 この器で刺身、お酒
は古唐津の片口とぐい吞みで・・・ウヒヒですね。
秀吉は、小田原攻めあたりから名実ともに天下人と
なり、尊大・傲慢な性向が出てきますね。 信長に
仕えていたときは、利休に藤吉郎と呼ばれた間柄でしたが、天下人になったのちは、利休が癪の種になったようです。
美術書で見るよりも、こうやって拡大写真で見せていただく方が良くわかります。
実物は、高さ6.0 口径6.2*6.2 底径4.0、少し大
きめのぐい吞みです。 牙蓋もついているのですが
蓋つきの写真を見ると、象牙の蓋と志野の肌合いが
ミスマッチかな―と思います。
このブログの写真が、残像として残っていただける
のはとても光栄で、励みになります。
コメントありがとうございました。
写真は大きいサイズのほうが、迫真力があるので、努めて大きくしているのと、作品のもつ良さをどうしたらよりよく伝えられるかには、非力ですが気を遣っているので、良くわかるとのお言葉、とても光栄です。 ありがとうございました。