話は変わりますが

ギターやゴルフを趣味にのんびり暮らしています。ド田舎でのなんてことない日々を綴っています。

No,44『いつまでも育ての親』

2013年08月06日 | 思想・雑感
アクセス頂きありがとうございます。

僕は、皆が泣くシーンでなかなか泣いたことがない。

葬式で泣いたことがない。卒業式で泣いたこともない。人としてどうなんだ?と自分で不安になる。それくらい、そういう状況で冷静だ。

しかし、今でも思い出すとぐっとくる話がある。
たぶん美談になってしまうが、想い出とはそんなもんで、僕が大切に思っているのだから仕方ない。

25歳の冬、僕は音響の仕事を辞め、地元に帰るコトを決めた。

自分にはTさんという師匠がいた。
Tさんは、僕が社会人になってから、みっちり仕事のいろはを教えて下さった。
リーダーとして、部下を引っ張る実力、人心掌握の力がズバ抜けていた。
感情で物を言わず、いつも冷静で、何か起きたら決して逃げず言い訳もせず、最前線で事態の把握、解決にあたった。
何度もご指導を頂き、何度も助けて頂き、何度も褒めて下さった。
大げさに思われるかも知れないが、
『この人の為なら死ねる』とまで思っていた。
やり直しの効かない、戦場の様な緊張感漂う現場。
凛とした表情のTさんがいつも心強かった。24歳の期末に、僕はオフィスの異動があり、神戸から大阪へ移った。
Tさんは、僕をゴルフに連れて行ってくれる車の中で異動について語ってくれた。
『この前のアグネス・チャンの現場、勝地ようやってくれたなぁ。安心して見れた。あの時、お前の為にも、もっと大きい現場があるオフィスに異動してもらおうと決めたわ。うちのオフィスの戦力ダウンは厳しいけど…』

異動した先でも、いつも現場ではTさんの教えが助けてくれた。
僕は改めて、完璧に仕事を教えて下さったTさんに感謝した。
異動でTさんと会うことはなくなったが、ある日メールが来た。
『仕事辞めるって聞いたけど、本当?一度話をしよう』

僕は、いつもの優しいTさんが色々と冷静に僕の話を聞いて下さるんだと思い、面会に臨んだ。
ニューオータニ大阪オフィスの、暗い調光室にTさんがやってきた。
『お疲れ様です。今日はわざわざすみません。』笑顔で僕が挨拶をすると
『今日俺はお前を引き止めに来たんとちゃうぞ』とTさんは鬼の形相で言い放った。
『お前が辞めようが、どこで何をしようが俺には関係ない。どーでもええ。俺は男として、お前に一言言いに来た。』僕は固まってしまった。
『俺は単純に、男として腹が立つ。お前みたいな奴は、このままではどこに行ってもあかん。それだけや。以上』

呆然とする僕を残し、Tさんはそのまま帰ってしまった。初めて、あんなに感情的なTさんを見た。
しばらくして、涙が止めどなく溢れて来た。もうすぐ現場では本番が始まる。涙を拭いて音響卓に戻った。
隣の照明卓にいた今の妻(その時はまだただの同期)が、『何かあったん?』と心配そうに訊いてきたが、だんまりを決め込むしかできなかった。

僕はこの日のことを、信頼のおける先輩に泣きながら全て話した。先輩は、あの穏やかなTさんがそんな感情的になるのが信じられないと言っていた。

Tさんとのことがありながらも、僕は田舎に帰る決心は揺るがず、着々と本社と手続きも進み3月になった。
例の先輩と飲みに行った時、先輩からこう言われた。

『かっちゃん、Tさんに思い切って訊いたよ。何で一方的にキツイ言葉投げかけて終わりなんですかって。かっちゃんの話も聞いてあげるべきだったんじゃないですかって。
そしたらTさんが、
【俺は3日間悩んで、悩み抜いて、あぁするしかなかったんや。あいつの話聞いたら、引き止めてしまうかも知れん。あいつは自分でよう考えて決めたに違いない。心鬼にして突き放すしか無かったんや。あいつにはお前から言っといてくれ。本心ではない、キツイこと言って悪かった。】って。』

僕はその話を聞いて人目もはばからず泣いてしまった。
Tさんが男として僕に何を伝えたかったのか。

今でも、仕事は違えど心の師匠はTさんのままだ。
『あいつ、めっちゃ頑張ってんなぁ!』良いニュースがTさんの元に届き、そう言ってもらえたなら本当に嬉しい。お陰様で近畿エリアでニュースや新聞に出させては頂いたが、まだまだ上のレベルじゃないとTさんは認めてくれないはず。
僕の会社の机には、Tさんと僕が後姿で写る2ショット写真が貼ってある。
頑張らねば。


話は変わりますが、

去年のTAJIMA WAVEに出演した時の写真です。
今年は牛マスク被って頑張ります。

顔を隠すことで、家庭を守ります。

終わり。