ここまでで当時の穀物法と不況及び通貨の問題認識がどうであったかを述べたが、そういった中、反穀物法同盟が1839年3月に結成される。その初期の資金の90%はマンチェスター地方つまりはマンチェスターの製造業者から出ていたとされ当然初期からその影響の下に運動が進められた。後にその比率はかなり減ったがこの支えは同盟の中心であったとされる。(N.Mccord:The Anti-Corn League1838-1846、前掲熊谷)
時間は前後するが、1820年にマンチェスター会議所設立後の立場としては穀物法に関しその初期の請願としては“全体的原則の不適切に気づきつつ、主要な強調点は穀物法は自由貿易の原理を侵している、そしてそれはこの国の海外貿易の深刻な害である”としていたが賃金への穀価の効果は述べてはいなかった。(A.Redford:Manchester Merchant And Foreign Trade p135)
その後1825年の恐慌を経て商業会議所の認識は決定的に変化したとされ(前掲 吉岡編イギリス資本主義の確立)1826年の決議では、 ア)穀物法の作用が不況を深刻化させ回復を遅延せしめている イ)穀物法が農産物価格を激動せしめ耕作者に損失を与えている事、ウ)穀物法が“労賃コストの騰貴を惹起し国際競争力を減殺する”のみならず輸入削減により諸外国の購買力を減退せしめかくして諸外国工業の自立的発展を促進しイギリス商工業の基礎を危うくしている。とし政府に穀物の“低率関税”を要求したが未だ廃止を要求するには至っていなかった。
1837年の恐慌、不作を経て、1838年10月には穀物法全廃を掲げ、反対同盟の前身であるマンチェスター反穀物法協会が設立された。其の中で1838年12月の商業会議所の請願草案要旨は、ア)食料価格の低廉と安定は国民福祉の基礎である。 イ)食料の不規則な輸入は国際貿易と国際平和を阻害する ウ)イギリス工業製品の一般的廉価と言う以前の優位は既に失われつつあり従ってもしも争う余地の無い優位と言う誤った観念から我々が食料価格について無関心であり外国の競争者がより安い価格で食料を獲得しているにも拘らず我が国の製造業者に高いパンを食する事を要求するなら我々は我が国の農業と工業が依拠している基礎を急速に掘り崩す事になる。エ)“禁止的関税によって穀物生産者に利益ある価格を保証する必用”について“利益の統一基準なる物はそれが土地の性質と位置および耕作に充用される資本と熟練に依存するに相違なく立法府の関与しえないものであるが故にこれを設定しえない としたがコブデン等の穀物法即時撤廃と定額関税を主張するもう一方に意見が分かれたがその12月の総会においてコブデン派が多数により支持され、そう言った中1839年3月に反穀物法同盟が結成された。
その間、1841年に議会に議席を持ったコブデン等は穀物法に関する議論を行ったのでありますが、其の中で注目に値するのは1842年にピール(1841-1846首相)により不況の原因として機械生産、過剰生産(其の他にはアメリカでの金融的混乱、対中関係の混乱、欧州での戦争への不安)の事が取り上げられた事があるが、1842年にピールにより穀物法に一定の修正が加えられた(前掲:北野 、W.C.Taylor Life and Times of Sir Robert Peel vol. Ⅲp166)但し大綿業資本家W.Rグレッグによって1842年に発行された”Not Overproduction ,But Deficient Consumption,The Source of Our Sufferings”で不況の原因は過剰生産ではなく過少消費であると述べている。(熊谷次郎 マンチェスター派経済思想史研究日本経済評論社1991年 尚熊谷氏の前掲著書とこの著作は19世紀商業政策史にとって非常に有益である)
またそう言った中、議会で同盟によって取り上げられた内容としては(1842-1846)、
ア)外国貿易拡大策としての穀物法撤廃。 穀物法が穀物輸入を制限し諸外国の購買力を減殺しひいてはイギリスの大陸市場の拡張を阻害している。
イ)イギリス工業の国際競争力強化策としての穀物法撤廃。穀物法が大陸諸国に比してのイギリス生計費(賃金)を高騰させ、賃金コストの増大により世界市場競争に打撃を与えているという事。
ウ)恐慌対策としての穀物法撤廃。恐慌、不況長期化の原因が穀物法であるとし穀物法が回復促進要因としての外国貿易の拡大を阻止しているのみならず国内市場においても穀物価格を騰貴させそれだけ工業製品に対する有効需要を減退せしめもって不況を長期化させている。等々の主張が行われた。(前掲吉岡によるW.Page:Commerce and Industry1919年の引用
以下次回