![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/8e/ff8f7d806ce0df60e9b73a8575fa9c25.jpg)
大恐慌時代は資金余剰の時代であった
貯蓄と投資の関連から政策は決定されなければならない
(見出しは筆者、斜体以外は筆者)
第二節
一般理論には富の不平等の将来に関わる、もう一つのもっと根本的な理論が存在する。すなわち我が利子率理論である。従来、ある程度の高利子率は貯蓄への動機を強める必要から正当化されてきた。しかし、一般理論は貯蓄の有効な規模は必然的に投資量によって決定されるし、投資量は低金利によって促進されることを明らかにしてきた。さらにその低金利も完全雇用水準を超えて投資を刺激することはできないと規定してきた。この判断基準は(完全雇用達成のためには*訳者補)利子率を現行よりもっと低くすべきであることを示している。もちろん一国全体を含む消費性向に極端な変化があれば別だが、多少なりとも持続的な完全雇用状態を維持することが実際にでき、またすべきであるとしたら、資本量の増大と資本の限界効率表との関連から、利子率は確実に下落するのが好ましい。
*解説
下線部は訳しにくい。先行訳はピンとこない。
But we have shown that the extent of effective saving is necessarily determined by the scale of investment and that the scale of investment is promoted by a low rate of interest, provided that we do not attempt to stimulate it in this way beyond the point which corresponds to full employment.
先行訳
だがわれわれが示したところによれば、有効な貯蓄の大きさは必ず投資の規模によって決定され、その投資規模は、完全雇用点以上に投資を刺激しようとするのでないかぎり低利子率によって促進される。
少々意味がとりづらい。
文章を次のように分解するのが正解だと思われる。
But
we have
shown
that the extent of effective saving is necessarily determined by the scale of investment and
that the scale of investment is promoted by a low rate of interest,
provided
that we do not attempt to stimulate it in this way beyond the point which corresponds to full employment.
一般理論はthat以下を明らかにし(have shown)、that以下と規定してきた(have provided)。と言う意味である。
どう規定したのか?
do not attempt to A beyond Bは「B以上のことはしようとしても無理だからするな」と言う意味であり、先行訳とは相当ずれる。
完全雇用点を超えて低金利で投資を刺激しようとしても無理 と言うことである。ま、provided以下はなくもがな の気もする。
筆者訳
しかし、一般理論は貯蓄の有効な規模は必然的に投資量によって決定されることと投資量は低金利によって促進されることを明らかにしてきた。さらにその低金利も完全雇用水準を超えて投資を刺激することはできないと規定してきた。
投資量を超える貯蓄は有効ではない、と言っている。今の日本である。債務弁済も貯蓄の一種である。
完全雇用点を超えると次は不況が待っている。ことによると恐慌が来るかもしれない。いずれにせよその時、資金は余っているのだ。
資本の限界効率が長期的にゼロになっただけではまだ足りない
資本の限界効率が非常に低い水準に落ち込むまで資本ストックを増大させることは難しくはない。その意味で資本需要には厳格な制限が存在する。これは資本装備の使用にほとんど費用がかからないからではなく、資本装備からの収益が資本装備の(*使用による)損耗や(*使用しないでも起きる)老朽化があいまっての消耗とほぼ同じ額となり、利益をもってしてはリスクと技能や経営判断の行使をカバーするのがやっとだということを意味している。簡単に言えば耐久財からのその寿命中の総利益が、非耐久財の場合と同じように、生産に要する労働費用と技術者と経営陣の人件費に消えてしまうであろうということだ。
*解説
資本ストックが増大していけば資本の限界効率が下がっていき、やがて利潤がゼロになる時点に到達する。このとき完全雇用が達成されているかどうかわからない。というのが一般理論である。ここではこのゼロ時点を利益が直接・間接の人件費に消えてしまう状態だと言っている。
このような利益がなくなってしまう状態は、経済における個人主義が存在するところでは起きうるし、さらに金利生活者の安楽死を意味し、したがって資本の希少価値を搾取しようとする資本家の長年続いた圧力の安楽死をも意味する。今や利潤は土地の地代のような真正の犠牲の上にあるとは言えない。資本の所有者は、資本が希少であるゆえにその利潤を獲得できる。それは土地所有者が土地の希少性のゆえに地代を獲得できるのと同じである。しかし土地の希少性には本来の理由があるのに対して、資本の希少性にはそんな本来の理由はない。希少性の本来的理由は、利潤と言う報酬を生み出す真正の犠牲と言う意味では存在しなくなるだろう。もっとも個人の消費性向が次のような性格を持っていると証明された場合は別だが。それは完全雇用の条件下で、資本が十分豊富になる前に純貯蓄がゼロになるほど消費性向が高まるような性格である。しかしそうであるとしても、資本の希少性が消滅する時点まで資本の成長をゆるすような水準で国家機関を通して公共の貯蓄を維持することは可能であろう。
*解説
土地は生産できないから排他的に独占していることが地代を産む。一方、資本設備は生産できるので、利潤を生まなくなる水準まで資本装備を増やすことは、理論的には可能である。地代は残り、資本の利潤は無くなっていく。金利生活者も資本装備を排他的に独占しようとする資本家も安楽死していくのだ。しかし完全雇用条件下で、貯蓄がゼロになるほど消費性向が高まれば(そんなことがありうるとしての仮定の話だが)、これ以上資本は増えないことはありうる。増やそうとしても閉鎖経済体系を前提にする限り投資の原資がないからである。そのときでも金融財政当局が資金を供給し資本の希少性がなくなる水準まで投資を続けることは可能である。
金利生活者や資本家を安楽死させるための社会的投資政策を提案しているのだ。実際には豊かな社会ほど消費性向は下がるのでこのようなことは起きない。起きないが幾度かの景気後退を繰り返しながら資本の限界効率がゼロとなる水準、完全投資の状態は長期的には訪れる。そのとき自由放任下では大量の失業者・半失業者が発生する。
ケインズは他項で20~30年後には「完全投資の状態」が訪れるだろう。と言っている。一般理論が世に出たのは1935年である。20~30年後は1955年から1965年になるが、現実の歴史はこの間に世界大戦をはさんでいる。敗戦国日本で主要耐久消費財の普及率が頭打ちになった、モノによってはほぼ100%になったのは1970年代である。
金利生活者や資本家の役割は終わった。あとは彼らに安楽死してもらうだけである。
緊縮政策の根本にあるもの:「資本から希少性を奪ってしまうのは悪魔の所業」「処刑ではなく安楽死を」
私は、それゆえ、資本主義の金利生活者的側面を転換期に存在するに過ぎないもの、その仕事を果たすと消え去る運命にあるとみている。金利生活者の側面が消滅することで巨大な変化が訪れるだろう。さらに私が主唱している改革の筋道の大いなる長所は、もはや機能を失った金利生活者の安楽死が突然起きるのではなく最近のイギリスで見られているように時間をかけて徐々に進んでいき、そこには何らの革命も要しないことである。
*解説
一般理論では当時のイギリスの現状を反映して金利生活者と企業家を分けて考えている。ここで金利生活者というのは巨額の資産(多くは債券、証券)を相続し、なーんにもしないで一生優雅に暮らす人々のことである。「刑事モース」を見ている方にはお分かりだろうが、労働者階級出身のモースに対してオックスフォードの御学友たちの優雅な生活を思い浮かべていただければいい。
現代日本においても、日本が灰燼に帰した1945年から七十有余年。その種の人々が発生してきており、さらに権力を握っている。政治家の二世三世問題は根が深いのである。
ケインズは資本量を豊富にすることでその希少性を奪い、彼らを安楽死へと向かわせる方策を提言している。彼らにとっても「ドイツイデオロギー」のように街燈に吊るされるよりましであろう。だからケインズは何らの革命もいらん、と言っているわけだが。
ここまで書けば、なぜ現政権が、日本の現政権のみならず世界のブルジョア権力が緊縮政策にこだわるのか、お分かりいただけよう。
緊縮を放棄し資本から希少性を奪ってしまう、などいうのは悪魔の所業なのだ。
ケインズ反革命の時代 所得格差と新自由主義
人々がそうは思わなかった、とケインズに報告しなければならないのがこの箇所である。
かくして、資本がその希少性を失うまで資本量を増加することこそ我々が実際に目指すべきことであろうし、そこには達成困難なことは何もないのである。資本量の増加によって投資家は機能を失い、もはや特別な報酬を受け取ることはなくなるだろう。そして金融業や企業家といったたぐいの人々は、好きでやってるんだから今より安い報酬でもやりつづけるだろうし、彼らの知性や決断力を妥当な報酬で公衆に奉仕してもらえるような直接税の制度を目指すべきであろう。
*解説
金融業、企業家というのは資本の所有者ではなくてホワイトカラー専門職のことである。つまりサラリーマンだから所得税を累進的に改めれば妥当な報酬となる、というもの。これが資本の所有者になると所得そのものの把握が難しくなる。それでも、妥当な報酬でも彼ら(ホワイトカラー専門職)は続けるだろう。それが好きだし他にできることもないから。
同時に次のことも認識しておかなければならない。一世代か二世代のうちに資本から希少性を取り去るという目的のために公共政策としてどの程度投資誘因を増大し補足すべきか、どの程度まで平均消費性向を刺激するのが安全なのか、これらのことは、ただ経験のみが教えるということである。利子率の低下によって消費性向は簡単に上昇するとしたら、貯蓄水準は現在とあまり変わらなくても完全雇用達成は達成できると分かるかもしれない。この場合、高所得層や相続への税率を上げていけば、完全雇用到達時には現在より貯蓄率が大きく下がるのではないかという反論もありうる。このような結果となる可能性、蓋然性すら私は否定しはしない。というのは変化する環境に対して平均的な人間がどう反応するかというようなことを前もって予言しても無駄だからである。しかし、もし現在とあまり変わらない貯蓄率で完全雇用に近い状態が保証できることを簡単に証明できれば未解決の問題は少なくとも解けたことになるだろう。ただしその場合も来るべき将来世代のために完全投資の状態を確立するには現役世代の消費をどの程度どのように制限するかということは別の問題である。
*解説
この節には、公共政策として金融・財政を考える上で重要な示唆が含まれている。
現状は貯蓄<投資か?
ここでケインズは、将来への投資のために消費を抑制しなければいけないケースもありうると言っている。消費性向が上がり過ぎれば貯蓄が減ることによって「貯蓄<投資」となってしまう場合のことである。
現状は貯蓄>投資か?
一方で、流動性の罠の項では、現在ほとんど無利子で資金が調達できるのであれば将来世代のために住宅を建設すればいいじゃないか。とも言っている。
両様のケース(実際はその間にもっと多数の)ケースがあるということだ。
将来への投資のために消費を抑制しなければならないのは、余剰労働力が枯渇してしまった時である。その時なお消費が落ちなければ投資をする余地は無くなる。これは貨幣ベースで考えているのではなく、労働力がないから投資ができないという状態である。ここまで来ると紙幣を増刷しても物価が上がるだけという真正インフレーションが起きる。
その時消費税は強力な武器となるだろう。ひるがえって、不安定雇用が増大し、その裏返しとして資金の余剰も発生しているときになぜ?なぜ消費税率を上げる必要があるのか。国家財政と言う部分均衡が一国経済という全体均衡を破壊するだけである。
一言付言すれば、真正インフレーションというのは金融資産家にとって悪夢であり、債務者にとっては天国である。固定金利の過去債務がどんどん減っていき、債権がどんどん目減りしていくのだから。
これが世界的な緊縮政策の根本にあるのだ。債権者=お金持ちの天国を目指しているのである。なーんにもしないで優雅な生活が送れるのだから。筆者は「上級国民」という言い方がきらいだ。国民に上も下もないからだが、債権者=お金持ちの天国を目指す人々のことは昔から「支配階級とその走狗」と呼ばれてきた。
付言すれば、野党にも野党支持者にも財政再建派が存在する。というより圧倒的多数派かもしれない。
それらの人々は債権者=お金持ちの天国を目指しているのであろうか?
まさかそうではあるまい。
経済をみるとき常識でみてはいけないのである。ケインズも家計に適用される規律を国家に適用してはいけないと言っているではないか?
第三節に続く