ケインズの利子率の一般理論の特徴は貨幣保持者の行動要因に流動性選好という概念を導入するところにある。貨幣は保有しているだけで値打ちがある。この誰でも知っていることを新古典派・現代正統派は認めようとしない。この流動性選好という概念を前にすると、資金の需給は利子率で均衡するという彼らの議論は怪しくなる。
流動性選好炸裂!古典派と常識を撃破
古典派と常識と書いたが両者は、ほぼイコールである。
貨幣数量説には「流動性選好」という概念が入り込む余地がない。
現代正統派も「流動性選好」という概念を持たない。
類似の概念は、マルクスの「物神崇拝」しかない。
なぜ経済学者は流動性選好を嫌うのか?
理由は、それが測り難いものだからである。
だから経済学のツールとして使えない、と考える。
現実は測り難いからこそ豊かなのに。
利子率の一般理論と銘打っているのは第13章のみだが、ケインズ利子率理論は第13章から第17章に及ぶ。一般理論の精髄と言ってもいいかもしれない。同時にケインズ利子率理論を正確に理解している経済学者は、少なくとも日本には数人しかいないと思われる。海外のことは浅学菲才の身ゆえあずかり知らない。
利子率とは預金金利のことではないので注意が必要である。ケインズが想定しているのは、資産のポートフォリオを貸出(債権購入)、流動性確保(預金を含む貨幣)、直接投資などに分けている資本家のことであり、ここでいう利子率は貸出金利ないしは金融投資の収益である。ケインズは銀行預金を現金(流動性)として扱う。ここで資本と賃労働という軸で考えると本質を見失う。企業・企業家や労働者も資金供給側の側面を持っている。余剰資金に関する限り、労働者大衆に拡張しても同じことである。
ケインズは利子率は別のところで決まっている、と考えている。と書いた。ケインズは利子率から資本の限界効率を、資本の限界効率から利子率を説明しようとしても循環論法に陥る、と言う。
資本の限界効率と利子率との均等を維持するよう投資率を増減させる力がはたらくことはあっても、資本の限界効率そのものは〔市場を〕支配している利子率とは別個のものである。
別個のものであるということは、貸付資金が需要される条件と供給される条件が全く違う決定因に基づいているということである。貸付資金が需要される条件は資本の限界効率との関係で既に詳述されている。では利子率の決定因、すなわち供給される条件、とは何だろうか。
ここでケインズは消費性向を時間選好と言い換える。所得ー消費=貯蓄、貯蓄は将来の消費に対するなんらかの形態での支配権であるから、時間選好(将来に消費することよりも現在に消費することを好む程度・待ってられないということ)のほうが分かりやすい、ということだろう。
ケインズは、
①いくら消費し(貯蓄し)、
②貯蓄のいくらを貨幣(流動性)で持つか
という二段階で考える。
ここの貨幣は預貯金も含まれる。①が時間選好(貯蓄に注目すれば貯蓄性向)、②は流動性選好と呼ばれる。
ケインズの指摘とは新古典派では②について考慮が払われてこなかった、ということであり、利子率を決めるのは時間選好(≒消費意欲?)ではなく流動性選好だ、貯蓄のうちいくらの流動性を確保しておきたいか、ということだ、と主張している。
利子率は貯蓄に対する報酬ではない。そうではなく、利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。このことは利子率の定義からしてすでに一目瞭然である。というのも利子率とはもともと、ある一定額の貨幣と、その貨幣に対する支配権をある債権(debt)と引き換えに、ある約定期間手放すことから得られる金額との逆比であり、それ以外の何物でもないからである。
ポートフォリオを貨幣から債権に組み替えるときに発生する利子。貯蓄するかどうかではない。貯蓄は消費性向から決定されるのである。
要するに、どんな時でもその時の利子率は流動性を手放すことに対する報酬であり、貨幣を保持している人が貨幣の持つ流動性に対する支配権を手放したくないと思う尺度である。
利子率は投資資金に対する需要と現在の消費をさし控えようとする節欲とを均衡化させる「価格」ではない。それは富を現金という形でもとうとする欲求と現金の有り高とを均衡化させる「価格」である。だから、利子率が下がる、つまり現金を手放すことに対する報酬が減少すると、そのときには、大衆がもちたいと思う現金の総量は現金の残高を凌駕する(exceed the available supply)だろうし、利子率が上昇すれば、誰ももとうとは思わない現金の余剰が発生するであろう。
利子率が下がる、つまり現金を手放すことに対する報酬が減少すると、そのときには、大衆がもちたいと思う現金の総量は現金の残高を凌駕する⇒デフレとなる
利子率が上昇すれば、誰ももとうとは思わない現金の余剰が発生する⇒インフレとなる、と考えてもいいが事はそう単純ではない。ここでは次のことが言えるだけである。
流動性選好とは、利子率が与えられたときに大衆が保有しようと思う貨幣量を決めるところの潜在的な力ないしは関数的傾性
ケインズは貨幣量はこのように決まると考える。流動性選好⇒貨幣量であってその逆ではない。貨幣量を増やしたからと言って流動性選好が下がるわけではないのである。
ケインズは貨幣量・利子率・流動性選好の関係をどのように考えているのだろうか?
貨幣〔需要〕量を利子率と関係づける流動性選好表は、一般には、貨幣量が増加するにつれて利子率が下落する〔利子率が下落するにつれて貨幣需要量が増加する〕ことを表す滑らかな曲線になると仮定してよい。
利子率は、…富を現金という形でもとうとする欲求と現金の有り高とを均衡化させる「価格」である。
貨幣量の増加は、他の条件が同じであれば、利子率を低下させると期待してよいが、大衆の流動性選好が貨幣量の増加以上に増大しているならば、そのようなことは起こらないだろう。あるいは利子率の低下は、他の条件が同じであれば、投資額を増加させると期待してよいが、もしも資本の限界効率表が利子率よりも速やかに低下しているならば、そのようなことは起こりはしないだろう。さらにまた、投資額の増加は他の条件が同じなら雇用を増加させると期待していいけれども、もし消費性向が低下しているとしたら、そのようなことは起こらないかもしれない。最後に、雇用が増加すれば、物価はある程度上昇するだろう。その程度は、一部は物的供給関数の形状に、また一部は貨幣表示の賃金単位が上昇する可能性にかかっている。そして産出量が増加して物価が上昇したとき、その影響は流動性選好に及んで、当初の利子率を一定に保つのに必要な貨幣量を増加させることになろう。
貨幣量・利子率・流動性選好の関係は単純には決まらない。というのが結論である。これは一般理論としては当然の結論である。問題は有効需要だからである。
ここまでで、一般理論の基本的理論展開は終わる。現実を分析するための概念は全て出尽くしたからである。ユークリッド幾何学で言えば公理系の叙述が終わったところだ。公理から演繹される定理はまた別である。
というわけで、ケインズが一般理論で展開した「公理系」をこの段階で概観することができる地点に立ったわけである。