私は、「終わったことなんだから仕方のないこと」と割り切ることはできない人間です。
この病気生活の中で一番えぐられたのは
「なぜ病気になったかを考えるよりも、今後の未来を失わないで。娘さんとの時間を大事にしてください。」
という言葉でした。
思いの外、すさまじい衝撃を受けました。
私が病気になった理由を考えたり追求することは、娘との時間を大切にしていないことなのか?
病気になったことを考えるのは、私がうじうじしてダメな人間だからなのか?
この時の衝撃は、本当に抑圧して忘却の彼方に押し込めないと、思い出すだけで涙を流してしまいそうなくらい辛かったのです。
人の悩みとは本当に面白いものです。
私自身も、こんなことでこんなに傷つくんだ、とか、あれ?思いの外ひっかかってないぞとか、予想していない心の動きをし続けてきました。
自分って何だろうと思ったくらいです。
だから、この言葉そのものは誰しもを傷つける発言ではないことも知っています。
私が重く捉え過ぎているのかもしれません。
ただ、いろいろあった中で
「終わったことの理由を追求して、何が悪いんだ!輝かしい未来を手に入れるために必要な作業なんだ!」
という認識を私は自分の核にしました。
これはあっさり生活の役に立ちました。
例えば、大事に取っておいたつもりのお饅頭を夫が食べちゃって、ショックだったとしますね。
「食べられちゃったんだから仕方ない」
って諦めることも可能なんですけど、もう一度があっては困るんです。私としては。
だから、原因を追求するんです。
「いい?1個しかない場合には、必ず確認してよ。みんなで分けて食べようと思っていたんだから。」
「えー、1個しかないから、みんなはそれぞれ食べ終わって僕の分が残っているんだと思ったんだよ。」
「そうだとしても、確認はすべきでしょう?」
「そうかもしれないけど。」
「そこにドラマがあったりするかもしれないじゃん。パパに買ってきたプレゼントなんだよ、とかさ。」
「なるほど。」
「そして仕事で一番大事なのはホウレンソウでしょ!」
「ここは家庭だよ・・。」
「いいの!家庭も仕事の良い理屈は取り入れないと。」
だんだん私の理屈も感情的になってきましたが、ここで娘のきつーい援護射撃です。
「みんなで楽しもうと思ってたのに、ぶち壊していいと思ってるわけ?」
「はい。ごめんなさい。」
「その発想がない。ひとりで勝手に食べていいなんて普通思わない!」
「ごもっともです。」
ということで、パパ、ノックアウトでした。
まあ、変な事例ですけど、これのおかげで1つしかないものを分けて食べることは、我が家のスタンダードな楽しみになりました。
「なんか、変な習慣だな。」
と夫は笑っていますが、「太っちゃうけど、いろんなもの食べたいもん!」という女性サイドの思いを汲んでくれて、楽しい未来が手に入りました。
私はなぜ自分が病気になったのか、今でも考えています。
でもそれでいいんだと思っています。
おかげで、病気と闘う覚悟をもらっていると思っています。
折れそうになるとき、考えることで結局は諦めからくる、怒りからくる、希望からくる勇気をもらっています。
娘も、ずっと自分のせいだと思っていたのに、私がいろいろ考えてぶつぶつ言うのを聞いて、自分のせいではない!と思えるようになったのです。
断片的なことだけで、うじうじと考えるダメなやつと評価されては、とても悲しいなと思います。
うじうじ考えることで、実際に明るい未来は手に入っていると思うのです。
そして今は、私が病気になったことの意義を自分で作り上げようと思っています。
うじうじマンだからできることを、これから証明してやりたいとすら思います 笑
ということで、悩んでいる時には、思いっきり悩んだらいいと、私は信じています。