自著の小説・詩の紹介(巨人戦)

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高尾山ハイキング

2008-12-02 16:11:33 | 旅行記

 今日は。

 私は東京に生まれ、64年間暮らしていたのに東京郊外の八王子市に所在する高尾山に一度も行った事はありません。妹や友達は遠足などで1,2度訪れていると言うのです。500米位の低い丘とどこか馬鹿にしていた節があります。予備校に行っていた時や会社勤めをしていた際には、中央線高尾行きの電車を見る度、これで行けるんだなと思っていました。

 最近、日帰りが出来る観光スポットとして、若人、中高年に人気で、テレビで何度か見ました。ミシュランの観光ガイドで、観光地の山として三ツ星を獲得したのは、高尾山と富士山だけとの事。

 学生時代は山男に連れられて、夏休みに大雪山系10日間、剣岳4日間などの山々を登り、大自然の雄大さ、神秘さを教えられました。

 定年退職4年目で、また頚椎症なので体力をそれ程鍛えていないので、500米級位なら丁度良いのかもと考え、山男に幹事を依頼し、級友男子8人(1人鬼籍)への連絡をして貰いました。1人はもっと高い山が良いので、また1人はゴルフで脚を捻挫、1人は体力が無いなどで、結局4人の参加。

 1週間前にテレビで見た簡単ヨガの立位、座位、臥位のポーズを従来の柔軟体操に加えて実施しました。11月の3連休の中日2日(日)には空前の7万人が押し寄せ、トイレ難、骨折や捻挫をしてしまった観光客が出る騒ぎと新聞に書かれていました。

毎日、テレビ、新聞を見て当日の天気が心配でした。と言うのは7月の予定日がその日だけ大雨で延期になっていたからです。そして紅葉の11月29日(土)に第一予定日としたからです。

 運良く暖かい日に恵まれ、四人分の缶ビールとおつまみをリュックに入れると重く、腰を痛めてはと心配になり、缶ビールを除けました。幹事がビール・酒は高尾山口で仕入れるとメールしてきているので。近くでお握りを購入し、日暮里乗り換えで新橋の人身事故で15分の遅れ。京王線新宿では線路内に人が入ったので、運行停止がアナウンスされ、ついていないな、集合時間に間に合うか気になりましたが、10分待ちで発車しホッとしました。10分遅れで終点高尾山口で下車し、改札に降りると、何と前の広場も人で溢れていました。ここでも男性3で女性7位の割合で、中高年女性のパワーを感じました。4人が揃い、ビールを買って、私は峠の向こうには店が殆ど無いと判断し、土産として饅頭を2箱購入しました。皆に「土産は?」と聞くと、「女房は寝てて、勝手に遊んでらっしゃいと言う態度だから、要らんよ」「毎回お土産は大変だから」などと答える。

 ここは、頂上までの往復時間と勾配などから初心者、初級、中級と8コースが設定されていて便利です。私達は3.8キロ、3時間コースの1号路を選びました。頂上から引き返さず、先の小仏城山、小仏峠、美女谷温泉、相模湖駅を目指すので、体力温存の為、ケーブルカーで清滝駅から高尾山駅に行きました。ケーブルカーは斜度50度近くあり、下り向き座席から滑り落ちそうです。9日前の鎌倉散策と違って、8割の紅葉が目に飛び込んできました。下車後、展望台から市街地を一望しました。案内板が無いので、新宿副都心の位置が判らず、遠方は霞んでいます。途中、樹齢五百年のたこ杉をバックに記念写真。根元が巨大たこの頭の形をしていて不気味です。言い伝えとして、道の邪魔になる根を切られそうになった杉が、一夜で根をぐにゃりと曲げたと。途中、浄心門を抜けると、仏舎利塔への高い石段があり、避けて、女坂から裏手に出て、手を合わせたのです。高尾山薬王院では巨大な天狗像に会い、目を奪われました。法事のため5,6人のお坊さんが色鮮やかな法衣を纏い、階段を上っていて、千載一遇と山男の柿さんや観光客がシャッターを切りました。ここは始祖が興教大師の真言宗智山派であり、約1260年前に聖武天皇の勅命により高僧行基菩薩が開山。薬師如来、飯縄権現が祀られている。ここでもパチリ。本堂横を通ると、黒い甍に朱の柱、そこに燃えるモミジが添えられ絵になるアングルで、カメラマンの列でシャッター音が続く。

 海抜599米の山頂に着き、汗をかいたのでジャンパーを脱いだ。眼下に赤いメグスリノキ、黄金色のブナ、イヌブナ、その先に山々の連なり、富士は恥らいつつ雲で顔を隠す。大山などの丹沢山系はくっきりと青空に浮かんでいるのに・・。

緩やかに登って行くと、明るく開けた一丁平に出て、モミジ、イチョウ、シラカバの色の対比が美しい。更に進み、昼食予定の海抜670米の小仏城山に到着。どこもかしこも輪が出来ていて、余地は無し。先に行って、人気の少ない所をと・・。眼下には紺碧の相模湖が樹林の間から、また雄大な富士の胸辺りが見えた。少し歩くと、休憩所があり、外で5組が昼食中。南面の空き地を探す。「でこぼこで、平らな場所がないな。もう少し先に行ってみようぜ」「そうだな」少し間をおいて、「ここを空けますから、どうぞ」と、ソプラノ声がした。「悪いな、追い出したみたいで・・」「食べ終わって、十分、休憩しましたから、遠慮なく」「そうですか。済みませんね」3人娘は立ち上がり、我らは食事の準備をした。「あら、おでんをコンロで温めるのですか?」「彼は山男で本格派なんですよ」「食事前だったらご相伴に預かれましたのに、残念だわ」「そうでしたね。美人とご一緒なら食もすすめたのに・・」「どうもありがとう。お気を付けて」「ご免下さい」

思いやりの爽やか笑顔が立ち去った。

達成感と共にビールで乾杯し、次いで日本酒。柿の種、イカの燻製。口にしたおでんが身体の芯を火照らせた。アッと叫んだ柿さんの声と同時に汁がジャンパーに飛んだ。窪地に脚を取られ、満タンの食器が傾いたのだ。「悪い、悪い!」「大丈夫だ」運び先の山さんより対面の私に多く掛かってしまった。即座に手拭いが渡され、拭った。「手渡しにすれば良かったに。汁を入れ過ぎだよ。七分目位だな」「大した事無いから、大丈夫だ」自分はひやっとした風が出てきたので、脱いだジャンパーを着ていて被害少なし。「寒い時には温いおでんが最高だわ」「本当だな。美味かったよ、ご馳走さん」 道中半ばなので、酒はほどほどにした。温い鳥の唐揚げ、お稲荷さん、お握りを出し合い、適当に皆で摘んだ。唐揚げが人気だった。

ポツリと何かが顔に落ちた。「何だ、これは?」富士山周囲の白雲が何時の間にか黒雲に変わり、こちらに迫って来る。「あそこの雨が強風でこちらに流れているんだ」雨滴が風に運ばれちらちらと光り輝いている。「そろそろ引き上げよう」「食事が終わって丁度良かったぜ」

 階段状の下りは骨が折れる。そして上り、また下りと草臥れた。立ち休憩を取ろうと言い、止まった途端に、右ふくらはぎに痙攣が走り、驚き、マッサージを施した。頚椎症からの筋肉過敏のせいかと思った。「低い山なのでもう少し平坦かと思ったが、結構きついな」「そうだな。俺もそう考えていた」山男が同調した。下りきって小仏峠に出た。右の道は小仏のバス亭との案内あり。数本の柱の1本に白ペンキの上から黒で小仏峠とあり、質素なので峠はもう少し先に休憩所と一緒にあるだろうと皆が思い、先へと脚を向けた。鄙びた売店がある所に出て、山さん持参のカメラに4人が納まった。「私達も撮ってもらおう」「ええいいですよ」「お互い4人ずつだ」「いえ、5人なんです」「そう」「これでお願いします」「僕は老眼で目が悪いから、セミプロの柿さん、代わってくれる」「おお、いいとも」背が同じ位の20代の娘さん5人が横に並んだ。「有難う御座います」「この先はどうなってるの?下り?」柿さんが問うた。「下って、上ります」「え、まだ上りがあるの・・」皆はややガクッときた。別れを告げ、急坂を下り、上りする。「いやに登るなあ・・」「相模湖から離れていく感じだよ」「そうだな。可笑しいぞ」「誰かに聞いてみたら?」

1人で下って来た細面の中年に柿さんが尋ねた。「小仏峠辺りから相模湖の美女谷温泉に行きたいのですが・・」「僕は景信山から下りて来たけれど、途中相模湖に下りる道は無かったな」と言いつつ、リュックから地図を取り出し、調べ始めた。「小仏峠は200米位戻った所ですよ」「え、そうですか!」「さっき、小仏峠と書いて有った所だったんだ」「でもあそこに道や標識がなかったみたいだったな」「途中止めて済みませんでした」「いいえ、どう致しまして」「お気を付けて」彼は地図を仕舞うと、下りを足早に去った。「凄いな。熟練しているな」「本当に」

がっかりしながら少し歩き始める。「すみません」と言いつつ、ヒョイヒョイトと天狗の様に駆け下りる小柄な山男。上には上が居るものだと、皆は脱帽した。駅前で仕入れた観光マップには小仏峠から相模湖への道は記入されていない。ヤフーの地図の抜粋には当然記載されている。

 先程の地点に戻ると、草の中に小さな標識があった。相模湖へ、旧甲州街道と。「こんなに目立たないのでは、見落としちゃうな」「良かったよ。早く気が付いて」「全くだ」口々に言い合う。鬱蒼とした樹木のため日が射さない細い道をジグザグに降りて行きます。「昔の人はこんな山道を歩いていたんだ。小さい頃、映画で見た山賊に出会って怖い目に遭ったんだろうな」「籠や馬もここを通ったのかな・・」「子供連れは大変だったろう」などと、江戸時代に思いを馳せる。やっとの事で、木漏れ日を認め、車の音が懐かしい。中央自動車道のコンクリート橋脚を仰ぎ見て、日本の土木建築の凄さに触れる。横の深さんに北京3年弱の駐在中の『老いらくの恋』をとうとうと話した。(丸秘なので、ここには記載出来ませんが、自著小説『北京の月季(イエチエ)』または『愛と死の絡繰(からくり)ー北京の月季(イエチエ)の増補版ー」をご参照下さい)彼は細目を丸くして頷いている。美女谷温泉は午後3時までに行かないと入浴できない由。無常にも針は4時少し前。「あそこで時間を浪費してしまったからな」「折角ここまで来たのに残念」「名前は忘れてしまったが、もう1軒温泉がある」(持参した柿さんからのEメール添付の地図にその名前があったと、このブログの書き込み時点で気付いた)「だったら、地元の人に聞いてみたら」「判った」川を下ると三叉路になり、地元人らしき小母さんに『天下茶屋』で、入浴出来ると聞いて、安堵した。左手を道なりに進み、店の看板に従い、小道坂を下ると、こじんまりした平屋旅館が目に入った。1人1050円を支払い、8畳位の湯船に浸かった。「温泉の成分表示がないので、ここは普通のお風呂なんだ」「ちょっとお湯を舐めてみよう」「汚いからよせよ」「大丈夫」と、指を舌に乗せ、「殆ど味がしないよ」と皆に言った。疲れを癒し、上がった。「日帰りで、お湯に入るのは初めてだな」皆も同じ事を口に。「汗でヒヤッとするぜ、下着が・・」「着替えを持ってこなかったのか?」「テント暮らしは風呂に入らないからな」「僕は汗をかいたり、風呂に入る時には必ず着替え持参が習慣だよ」1人快適気分で着替えた。その時、リュックの底に妹が作ってくれた分割リンゴが早く食べてと騒いでいる。最近、記憶回路が円滑に機能せず、的確、早期に呼び出せない。ソファーに寛ぎ、皆で分けた。結構腹の足しになる。疲れてるし、4人ならバスでもタクシーでも料金はそれ程変わらないからと、柿さんの携帯で車を頼んだ。小坂を登ると、タクシーが丁度到着。「相模湖畔は雪洞が点いて、夜景が綺麗だわ」「折角だから、それを見てから相模湖駅へ」・・・・・・「おや、今日は遣ってないみたいだわ。お客さん、ご免なさいね。ここでメーターを倒しますからね」「でも、白く映った湖はかいま見えたから」「そうだよね。相模湖のタクシーに詐欺にあったと口コミされたんでは、町の名誉に傷がつきますものね。インターネットで日本中に広まってしまうよね」車内に笑いがこぼれた。相模湖駅前で下車し、トイレで膀胱を空にした。買ったビールを口に含む。身体全体が喜ぶ。「今日は愉しかったよ。毎年遣りたいな」「日帰りはきついから、民宿で1泊にしてくれよ」と千葉県野田の山さんが口を挟む。「そうだ。のんびりしたいからな」高尾止まりで降り、始発の中央線快速に乗り換える。跨線橋はラッシュ並みのごった返し。右手の階段では動かず、左手はすいていたので、そちらから下りた。

入線し、後部から2つ目の車両ドアの真ん前から一番で入り、3人が座れた。運が良かった。若い頃には座席を求めなかったのにと、老いを痛感しながら、もう一口を味わう。

八王子駅で横浜方面の柿さん、深さんが乗り換え、次回を約し別れた。山さんは西国分寺駅から武蔵野線へ、自分は三鷹で準特急に乗り、御茶ノ水から秋葉原、日暮里経由で京成線へと乗り継いだ。

 このブログを書き込みながら、写真を撮って貰ったグループ位には自著を宣伝して置けば良かったと後悔する。WEB検索で、『高木』と入力し、立ち上げた10社のブログを覗いて頂ければ、無料で小説や詩が閲覧出来ますからと。

何はともあれ、四人組の珍道中は無事終了しました。

 また、旅行した際にはブログを書きます。

それでは、お元気で!

 


古都鎌倉散策

2008-12-01 23:19:35 | 旅行記

 今晩は。

 古都鎌倉を散策しましたので、歴史と印象を記します。

  11月20日(木)に、OBの『カルチャー雅会』主催による『古都鎌倉歴史探訪と紅葉狩り』に参加しました。JR鎌倉駅の改札は人でごった返していました。見渡すところ、女性7で男性3位の割合で、正に女性パワーに圧倒されたのです。32名が集まり、ぽかぽか陽気の中を先ず若宮大路から朱色が鮮やかな鶴岡八幡宮を参拝しました。

 源氏と言えば、木曽義仲、源義経が有名で本、映画、漫画で小学生の頃に親しみました。鎌倉幕府は1192年(いい国造る頼朝公で年号覚え)に鎌倉幕府を造り、武家政治を開始し、頼家が継ぎ、3代目の実朝は『金塊和歌集』を出した文人将軍で、八幡宮を参拝した折り、大銀杏の影から現れた公暁によって殺された事位しか記憶に有りませんでした。ガイドさんが再三再四源氏3代は短命であったとおっしゃるので、WEBで詳細に検索した結果、頼家と実朝は暗殺され誠に短命であったと知りました(頼朝にも暗殺説あり)。

1.鶴岡八幡宮

 この八幡宮は1063年に源頼義が由比郷鶴岡に鶴岡若宮として建て、愛知出身の武将源頼朝が1180年に現在地に移し、源氏の氏神とした。ご承知の如く、平治の乱で平家に敗れた源義朝の嫡男頼朝は伊豆に流されたが、旗揚げし平家を滅ぼして、1192年に鎌倉幕府を造り、武家政治を開始した。頼朝が52歳で死去した後、嫡男頼家が20歳で2代将軍になったが、頼朝の妻北条政子が実権を握っていた。独裁政治に反発した北条家によって修善寺に幽閉され、22歳で暗殺された。その弟の実朝が12歳で3代将軍に就いたが、27歳の時に八幡宮を参拝し、大銀杏の影から現れた頼家の子公暁によって殺され、源氏は3代27年余で絶えた。この後、摂家将軍(九条氏)2代、親王将軍4代は全て縁戚関係であったが、執権役であった平氏出身の北条氏の権力は絶大で、これらの将軍はお飾りであった。

 141年続いた鎌倉幕府は、後醍醐天皇の討幕運動に従い挙兵した群馬県新田郡(現太田市)出身の鎌倉御家人新田義貞と足利千寿王(栃木県足利の源氏の出身である足利尊氏の嫡男)に攻められ、平氏出身の北条家の執権義時が自刃し、幕を閉じ、室町幕府へと連なります。

 平氏と源氏は政略結婚などで互いに血が混じり合い、戦乱の世を駆けていたのかと思うと、いたたまれないですね。

 実朝は13歳の元服時に京都の公卿坊門信清の娘13歳を北条家の意向に反して我意で貰い、和歌に目覚めたとされています。奥方の甥が後鳥羽天皇との事。藤原定家とその弟子に和歌を習い、定家が実朝の和歌を選定して『金塊和歌集』を編んだそうです。そのうちの一つ:大海の 磯もとどろに よする浪  われてくだけて さけて散るかも

私も一句:

    大銀杏 紅葉散れども 凛として  時の移ろい 髄に刻みし    

 中学生の団体が通りすがり、自分にもあのような時代があり、当時は現在の自分を想像出来なかったなあと、来し方を振り返りました。

2.鎌倉五山

  五山の制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来すると言う。  鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(1191年)に南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗はその後隆盛を極め、鎌倉時代の末期、幕府は次々と大 寺院を建立。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の 主な禅刹を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したと いわれる。その後たびたびの改定を経て、至徳3(1386)年足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、京五山として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、 鎌倉五山として第1位 建長寺、第2位 円覚寺、第3位 寿福寺、第4位 浄智寺、第5位 浄妙寺の五寺が定められた。元和元年(1615)には徳川幕府が五山十刹に対し法度を出した。
 もともとは、寺を格付け管理し、官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度。

 1)建長寺

  北へと坂を登って行くと、質素な建造物が右手に現れた。この寺の正式名は『巨福山(こふくざん)建長興国禅寺』で、臨済宗建長寺派の大本山。建長5年(1253年)に鎌倉幕府5代執権北条時頼が建立した日本最初の禅寺。初代住職は中国宋時代の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)で、来日し、時頼に請われ、禅を広めた。なお、『建長汁(けんちんじる)』は建長寺発祥の料理との事。トイレは禅語では『東司』。

平坦な土地に総門、三門、仏殿(地蔵菩薩)、法堂が一直線に並んでいます。右手に重さ2.7トンの梵鐘。奥には貴賓をもてなす龍王殿と裏庭となる日本最古の初代作庭の禅庭園(池、島、石、松、小山)。

 色彩豊かな鶴岡八幡宮とは正反対の瀟洒な趣であった。

 2)(金宝山)浄智寺

  更に、北鎌倉駅の方へ向かって、踏み切り手前を右折したところに在る『あじさい寺』として名高い『名月院』には寄らず、線路を渡り、直ぐに左折した。こんもりした森があり、なだらかな長い階段の先に姿を見せる。左手の坂を上って行けば銭洗い弁天へと。臨済宗円覚寺派。創建は13世紀の終り頃で、北条氏は勢力が盛大で、禅宗を保護した。北条時頼の三男宗政が二十九歳で没し、その夫人が寺を起こしたと言われている。初代住職は南州宏海と師の中国僧大休正念、故人の師僧の三人としている。

 戦国時代から江戸時代に入ると、鎌倉は農漁村になってさびれ、更に関東大震災で多くの建物が倒壊。現在は三門、楼門、新しい仏殿の曇華殿(阿弥陀、釈迦、弥勒の各如来は過去、現在、未来の時を代表)、方丈、客殿。裏庭の岩のトンネルを抜けると等身大の布袋尊が祭られていた。家の近所に、巨大な布袋様がおり、お腹を右回りに3回撫でて、願い事をするのだと掲示されていたので、皆に教えた。植物も豊かで、桜、梅、牡丹、夏椿、シャガ、コウヤマキ(鎌倉第一の巨木)、ビャクシンなど。

 3)円覚寺

  精進料理と地ビールで会食した後、解散となり、一人円覚寺を目指す。

森木立がやや急斜面に連なり、参詣客は少なし。正式名は瑞鹿山円覚興聖禅寺で、臨済宗円覚寺派の大本山。開基は8代執権北条時宗で、中国の名僧無学祖元を招聘。創建の趣旨は、国家を鎮護し、仏法を紹隆すると共に、蒙古襲来で戦没した敵味方の霊を慰める事。静寂の中に、厳粛さが漂う。鐘楼の在る丘からは市街が一望され、麗峰富士も間近に感じられた。

 北鎌倉駅は目の前で、1軒しかない店で鳩サブレを友と家族に購入し、JR湘南線に乗った。

 歴史探訪の幕は閉じた。

残念ながら紅葉は例年より遅く、1割程度であり、皆驚いたものだった。