今晩は。
古都鎌倉を散策しましたので、歴史と印象を記します。
11月20日(木)に、OBの『カルチャー雅会』主催による『古都鎌倉歴史探訪と紅葉狩り』に参加しました。JR鎌倉駅の改札は人でごった返していました。見渡すところ、女性7で男性3位の割合で、正に女性パワーに圧倒されたのです。32名が集まり、ぽかぽか陽気の中を先ず若宮大路から朱色が鮮やかな鶴岡八幡宮を参拝しました。
源氏と言えば、木曽義仲、源義経が有名で本、映画、漫画で小学生の頃に親しみました。鎌倉幕府は1192年(いい国造る頼朝公で年号覚え)に鎌倉幕府を造り、武家政治を開始し、頼家が継ぎ、3代目の実朝は『金塊和歌集』を出した文人将軍で、八幡宮を参拝した折り、大銀杏の影から現れた公暁によって殺された事位しか記憶に有りませんでした。ガイドさんが再三再四源氏3代は短命であったとおっしゃるので、WEBで詳細に検索した結果、頼家と実朝は暗殺され誠に短命であったと知りました(頼朝にも暗殺説あり)。
1.鶴岡八幡宮
この八幡宮は1063年に源頼義が由比郷鶴岡に鶴岡若宮として建て、愛知出身の武将源頼朝が1180年に現在地に移し、源氏の氏神とした。ご承知の如く、平治の乱で平家に敗れた源義朝の嫡男頼朝は伊豆に流されたが、旗揚げし平家を滅ぼして、1192年に鎌倉幕府を造り、武家政治を開始した。頼朝が52歳で死去した後、嫡男頼家が20歳で2代将軍になったが、頼朝の妻北条政子が実権を握っていた。独裁政治に反発した北条家によって修善寺に幽閉され、22歳で暗殺された。その弟の実朝が12歳で3代将軍に就いたが、27歳の時に八幡宮を参拝し、大銀杏の影から現れた頼家の子公暁によって殺され、源氏は3代27年余で絶えた。この後、摂家将軍(九条氏)2代、親王将軍4代は全て縁戚関係であったが、執権役であった平氏出身の北条氏の権力は絶大で、これらの将軍はお飾りであった。
141年続いた鎌倉幕府は、後醍醐天皇の討幕運動に従い挙兵した群馬県新田郡(現太田市)出身の鎌倉御家人新田義貞と足利千寿王(栃木県足利の源氏の出身である足利尊氏の嫡男)に攻められ、平氏出身の北条家の執権義時が自刃し、幕を閉じ、室町幕府へと連なります。
平氏と源氏は政略結婚などで互いに血が混じり合い、戦乱の世を駆けていたのかと思うと、いたたまれないですね。
実朝は13歳の元服時に京都の公卿坊門信清の娘13歳を北条家の意向に反して我意で貰い、和歌に目覚めたとされています。奥方の甥が後鳥羽天皇との事。藤原定家とその弟子に和歌を習い、定家が実朝の和歌を選定して『金塊和歌集』を編んだそうです。そのうちの一つ:大海の 磯もとどろに よする浪 われてくだけて さけて散るかも
私も一句:
大銀杏 紅葉散れども 凛として 時の移ろい 髄に刻みし
中学生の団体が通りすがり、自分にもあのような時代があり、当時は現在の自分を想像出来なかったなあと、来し方を振り返りました。
2.鎌倉五山
五山の制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来すると言う。 鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(1191年)に南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗はその後隆盛を極め、鎌倉時代の末期、幕府は次々と大 寺院を建立。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の 主な禅刹を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したと いわれる。その後たびたびの改定を経て、至徳3(1386)年足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、京五山として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、 鎌倉五山として第1位 建長寺、第2位 円覚寺、第3位 寿福寺、第4位 浄智寺、第5位 浄妙寺の五寺が定められた。元和元年(1615)には徳川幕府が五山十刹に対し法度を出した。
もともとは、寺を格付け管理し、官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度。
1)建長寺
北へと坂を登って行くと、質素な建造物が右手に現れた。この寺の正式名は『巨福山(こふくざん)建長興国禅寺』で、臨済宗建長寺派の大本山。建長5年(1253年)に鎌倉幕府5代執権北条時頼が建立した日本最初の禅寺。初代住職は中国宋時代の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)で、来日し、時頼に請われ、禅を広めた。なお、『建長汁(けんちんじる)』は建長寺発祥の料理との事。トイレは禅語では『東司』。
平坦な土地に総門、三門、仏殿(地蔵菩薩)、法堂が一直線に並んでいます。右手に重さ2.7トンの梵鐘。奥には貴賓をもてなす龍王殿と裏庭となる日本最古の初代作庭の禅庭園(池、島、石、松、小山)。
色彩豊かな鶴岡八幡宮とは正反対の瀟洒な趣であった。
2)(金宝山)浄智寺
更に、北鎌倉駅の方へ向かって、踏み切り手前を右折したところに在る『あじさい寺』として名高い『名月院』には寄らず、線路を渡り、直ぐに左折した。こんもりした森があり、なだらかな長い階段の先に姿を見せる。左手の坂を上って行けば銭洗い弁天へと。臨済宗円覚寺派。創建は13世紀の終り頃で、北条氏は勢力が盛大で、禅宗を保護した。北条時頼の三男宗政が二十九歳で没し、その夫人が寺を起こしたと言われている。初代住職は南州宏海と師の中国僧大休正念、故人の師僧の三人としている。
戦国時代から江戸時代に入ると、鎌倉は農漁村になってさびれ、更に関東大震災で多くの建物が倒壊。現在は三門、楼門、新しい仏殿の曇華殿(阿弥陀、釈迦、弥勒の各如来は過去、現在、未来の時を代表)、方丈、客殿。裏庭の岩のトンネルを抜けると等身大の布袋尊が祭られていた。家の近所に、巨大な布袋様がおり、お腹を右回りに3回撫でて、願い事をするのだと掲示されていたので、皆に教えた。植物も豊かで、桜、梅、牡丹、夏椿、シャガ、コウヤマキ(鎌倉第一の巨木)、ビャクシンなど。
3)円覚寺
精進料理と地ビールで会食した後、解散となり、一人円覚寺を目指す。
森木立がやや急斜面に連なり、参詣客は少なし。正式名は瑞鹿山円覚興聖禅寺で、臨済宗円覚寺派の大本山。開基は8代執権北条時宗で、中国の名僧無学祖元を招聘。創建の趣旨は、国家を鎮護し、仏法を紹隆すると共に、蒙古襲来で戦没した敵味方の霊を慰める事。静寂の中に、厳粛さが漂う。鐘楼の在る丘からは市街が一望され、麗峰富士も間近に感じられた。
北鎌倉駅は目の前で、1軒しかない店で鳩サブレを友と家族に購入し、JR湘南線に乗った。
歴史探訪の幕は閉じた。
残念ながら紅葉は例年より遅く、1割程度であり、皆驚いたものだった。
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