ポンタハウスから 「こんにちは」

写真とれない。外国語はモチロン、
日本語もちょっと変かも。
でも 始めちゃいました・・・

きょうは父の日

2018-01-01 17:59:16 | わたし

喪中ではないのに、身内には年賀状だしたくない気持ちで過ごしていました。まだまだ他界して半年のあの子(姪)の事で悲しくて。

 私って常識ないのかな、、、とか思っていたら思い出しました。

父の兄が他界して、、当時の習慣では喪中ではないけど、父が喪中にした年があったのです。

父は自分の気持ちを大切にしたのです。だから私も身内に年賀状を出さずにいていいのよね

それは、ちょうど50年前。でも高校生だった私は、大好きだった方から年賀状がいただきたくて

「喪中だけど年賀状ちょうだい」とお願いしてゲット、母には「馬鹿ね」と言われた。

 

その年の元日は、父の還暦の日ですから、今日は父の110歳のお誕生日なのです。

父は74歳で母は80歳直前で他界しましたが、母は特に弱っていたのですが、今思えばまだ若かったのにと思います。

 

父の還暦のお祝いは、喪中でお客様もいらっしゃらないし熱海グランドホテルだったと思いますが、兄たちや兄嫁たち、乳幼児だった甥たちとお祝いしたのです。兄嫁たちにはサプライズでダイヤ、私はルビーのペンダントを両親から記念品として贈られました。

子供たちからのお祝い品は父にはカメラ、母には書道用品を贈って、私も五百円か千円くらい出したと思います。

その日私の着てた服は、表バラ色と裏灰色の分厚いリバーシブルの生地で仕立てていただいたワンピース。

暖かいけど分厚くて、両面着られる仕立てでしたが、実に動きにくかった。母が生地を買ってきて洋裁のできる方にお願いして出来上がった服を母に言われるまま着てた私。

元々お洒落のセンスは私にはなかったし、母の好みには逆らえなかった。

受験生の私でも、その日、、問題集とかやった記憶がないので、泊っている間は勉強しないくらいのんびりしてた時代だと思います。

でも働いて自活する意識があって真剣に勉強していたら、もっと違う人生が過ごせたなと思います。

姪の人生と比べて、私はなんとつまらない人生を過ごしてきたのかと思うのです。

 

物を知らず特に歴史や地理政治とか苦手なわたしは、父によく注意されてたし、母は「旅行は行きなさい、行けなくなっても思い出として楽しめるから」と言っておりました。

今も私は勉強も旅行も面倒くさい気持ちがあるのですが、どちらもいつまでもできるわけではないので、私の終活の一つとして取り組みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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