朝8時59分ごろの震度3の地震で目が覚め、家具の固定はしてないのでベッドのわきのヘルメットを急いで探しました。
地震情報を見ようとテレビをつけたら断水停電の輪島市の状況を放送していて悲しくなりました。
私にできることもないからわずかばかりの応援に寄付をもう千円しようかなとか思いました。
食器棚の扉を開けたとたんに陶器のカップが落ちてきて割れました。夫が変な置き方をしたか、この地震で食器の位置がずれたのでしょうか。
東日本大震災の時震度5強の際も、食器棚の中でカップが一つ倒れてただけで他の被害はなかったので、油断していました。
一月後半仕事が入っていました。もう一日出勤すれば終わりです。もう仕事の依頼は来ないかなとか思います。
私はおそらく最高齢でもありますし心が揺れてて集中できなかったのです。頭に浮かんで集中できなかったのは、仕事と全く関係のない半世紀以上前の私のこと、淡々と指摘されたことかもしれません。
11月の終わりに大久保のホテルのお泊りしました。今回は2年ぶりですがお友達が企画してくださってお仲間に入れてくださって感謝しています。
私は一人旅も好き、お友達とご一緒も大好き。遊ぶのは楽しいですもの。
ほんの5分に満たない会話、言われたのは「高校生の時の私の連続重役出勤」、これで4回連続でした。
高校生の時の私の連続重役出勤は事実ですが私の高校時代を知っている人は他にいないのに何故繰り返し口に出すのでしょう。
3回目から「いくら何でも、もう今回は触れないでしょう」
4回目の今回も頭をかすめましたが「いくら何でも、もう今回は触れないでしょう」と思いました(兄はからんや弟つまらんやとか)
何のために半世紀以上前のことを口にだすのでしょう。
毎回言ってることを本人は忘れているのでしょうか。
「学生時代いつも男の子と一緒だったわね。」
これも半世紀以上前のこと、淡々と指摘されました。
いつも一緒にいた彼はストーカーでした。学生時代の一年半近く私は本当に苦しくて辛かった。
自分で自分の気持ちもわからなくなってきたりもします。
親に送り迎えしてもらったりもしましたが、それでも家の前で待ってる、洋裁教室に電話したり学校の教室の前で待ってる、
私が家庭教師していたお宅に押しかけ「ポンタのお母さんが病気です」とか。捕まったら放してくれない
とっくに解決したはずなのに6月の尾瀬の山小屋(無線でしかつながらないので直接会話しないですみましたが)に電話してくる。
ご家庭の都合で急遽尾瀬行きをやめた彼女、彼女は疑いもせずその彼に宿泊先電話番号を教えたのでしょう。
ストーカーされたことを思い出した傷みか、彼女の言葉に温かみを感ぜず非難されているように感じたのか、
楽しかったはずなのに、もう一緒にいるのがつらくなってやっと帰ってきたように思います。
7月の尾瀬行きの時、お菓子を持って見送りにきてくれた女の子言葉で話すカレもいたし、確かに男の子と一緒の事は多かったけれど。
半世紀以上前の入試の時の付き添いのカレ(家庭教師と紹介したかも)もいて、
でも、入試に付き添いなんて私が望むわけないし、そのカレ 政治経済で受験する私に試験場でまで「労働三法は何か」とか質問してきました。
煩わしいと思った私は「わからない」と答え、カレは落胆してたけど私の次の受験番号の方には、数年後(知り合った彼女は小田原出身で英文科に)
「彼素敵な人ね。でも労働三法もわからないなんて(私のことを)馬鹿な子だと思った」と言われました。
6さいのばらーど/ゆーゆ 彼女が私のブログを読むことはないでしょうが、この歌詞は、私の心に共感してくれるようで貼り付けました