錫 杖 流

我流を貫く自由人です。

東洋のガラパゴス 小笠原諸島へ その1

2019-03-17 | 小笠原諸島

1968年6月小笠原諸島はアメリカより日本へ返還され今年ちょうど50周年。

島の歴史を調べてみると文禄2年(1593)、信州深志(松本)の城主であった小笠原長時のひ孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられています。
しかし最初の定住者は日本人ではなく、当時欧米からたくさんやってきていた捕鯨船に、水と食料を供給する為に住み着いた、欧米人5人とハワイ人15人でした。
その後、明治9年(1876)に日本が領有宣言をして、国際的にもここが日本領土として認められました。

ここでの農業は、亜熱帯性気候を生かした果樹や冬野菜の栽培、漁業ではカツオ、マグロ漁のほか、捕鯨やサンゴ漁などが行われ、

大正後期には人口7,000人を超え小笠原の最盛期を迎えました。

最終日にお話したご高齢の住民男性は船乗りでインド洋までマグロ漁船に乗っていたとのことでした。

一旦漁に出ると船内冷凍庫が満タンになるまで帰ってこれなかったと。

 

太平洋戦争を境に、それまでの平和で美しい島の様子が大きく変わります。

昭和19年(1944)には、6,886人の島民が本土へ強制疎開させられ、

硫黄島では日本軍が玉砕し、日米両国を合わせて28,721人の尊い命が奪われました。

戦後、小笠原は米軍の統治下に置かれ、一部の欧米系島民しか帰島を許されませんでした。

全ての島民たちの帰島が許されたのは、それから23年後の昭和43年(1968)6月26日、小笠原諸島が日本に返還された時です。

内地での生活基盤が出来上がった人たちも多く、小笠原へ戻ることを諦めざるを得なかった人も少なくありません。
昭和54年(1979)4月に村政が確立され、自然と共生する村をめざして新しい村づくりが始まりました。

 

学生時代を過ごした信州

松本深志という地名に少なからず縁を感じつつ

旅を楽しみました。

 

行きの船内(雑魚寝部屋)で同室だったのは

W大ダイビングサークルの10名だった。

話を聞いていると卒業旅行だという

与那国や座間味

セブ島にも潜りに行ったとのこと

皆一人一人いい目をしていて

大学生活の充実さを物語っていました。

 

このフェリーで最もいいなと思ったのは

ネットが通じない事

太平洋の大航海

学生さんは大いに語らっていた。

長編の小説を読まれている方も少なくなかった。

夕焼け・星空・朝焼け

そして南下するにつれて湿気を伴い気温が上がっていく様を甲板で感じ取る

五感を刺激してくれるフェリー旅でした。

 

 

3日目、ご来光を待つ若者たちと共に

都会を離れ小笠原に移住してくる若者は多い

島時間の豊かさに反応するのですね

 

 

3日間過ごした父島の繁華街

おがさわら丸が停泊してる間は街が賑わいます。

 

 

 

 

2度目の天の川撮影

海抜0mで天の川が見れます。

 

 

小笠原諸島の雰囲気は

アルプスで例えるなら

島そのものが森林限界の標高にいるかのようでした。

 

次は父島の風景をお送りします。

 
 


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