心の花束

つれづれなるままに心の中に花束を持ちたい

「富は偶像か?」

2009-07-06 | 教会
7月5日(日)教会です。
第一聖日は聖餐式があります。
今回は、受付当番に用いられました。少し早めに出かけ、会員さんを迎えます。
説教は
「富は偶像か?」と題してです。
礼拝に集う人たちはそれぞれ違った考えの持ち主です。
その違う考えの人が集まり様々な意見が出ても、
「神様を信じる事に関しては一致である」ことが大切だと説かれます。


聖書の転記を始めてやがて3年になりますが、まだ「エズラ記」です。
聖書に書かれている言葉に照らして自分を制していくと心の中では思います。
しかし、現実はそういう訳にはいきません。聖書の言葉は難解です。
ゆえに色々な解釈が生まれ、宗派が誕生するのでしょうか。

単純な私は、神さまがイエス様を復活させられ、
常に共に歩んで下さっていることだけを信じています。

他人から傷つけられる事もしばしばあります。
それでも、それは与えられた試練であり
その事を通して成長できる自分を見出す事が出来るのではないかと受け入れます。

人は「お人好しだ」と言います。
「傷つけた相手とは少し距離を持つべきだ」と助言を受けます。

そんな時はとても悲しいです。
私は傷ついたと思っていても、相手は傷つけたと思っていないから。

会話の中で聖書の言葉を引き合いに出して話せたらと思う。
洋画を見ていると必ず聖書の言葉が出てくる。

昔、これからの人は国際社会に生きていかなくてはならないから
聖書は読んでおかないと仕事にならないと聞いた事がある。

世界中の人が聖書の言葉を通して語り合えたらきっと戦争などしなくてよいのに。

聖書は罪人の物語ばかりです。なぜって思っていました。
それは神さまに出会うために捉えられた人だからだろうと思えるようになりました。

30年前に姑に導かれた私はまだまだ理解できていないのかもしれない。

コメント
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