人生の階段ー日々の詩に託してー

ある老婆の日々ーー

水上の学校

2016年10月21日 | 映画

タイの映画を見ました

水上の学校に赴任した若い教師の

物語なのですが

そういうことではなくて

感慨深かったのは

やっと教師が来て

学校が再開されて

子供たちと先生がーー数人しかいないーー

まず最初に何をしたかと思います?

きちんと姿勢を正して

国歌を歌ったのです。

これが「国の真摯なありよう」

ではありませんか?

「世界の通学路」っていう

映画もそうでしたが

万難を排してたどり着いたとき

子どもたちは

まず国歌をきちんと姿勢を正して

歌うのです。

自国の国歌を否定し国旗を否定する

教師がまかり通っている国は

世界広しといえども日本だけでしょうね。

不思議の国です。

そしてあまりにもひどいから

強制的に教師に罰を課したり

どうでも起立させ

口を開けて歌わせ

どころか

口ぱくか否かまで

調べるってんですから

もうあきれてしまいます

どうなってるんですかねこの国は。

子どもたちと先生が

水上の地位なぼろぼろの学校で

姿勢を正して国歌を歌う

その姿が一番印象に残った

映画でした・・・

 

 

 

 

 

 


立山の記憶

2016年10月10日 | 日記

知りませんでした

日本にこんなすごい山があったなんて。

出席が悪くて

単位が取れそうもない

不出来の学生たちをなんとか

単位取らせるためにと

大学が慈悲を持って計画してくれた

のが

立山登山。

当時は称名滝も脇を歩いて登り

弥陀が原も歩き通し

霧の中で私はぱんぱんにふくれて

しっかり高山病に。

霧の中で遠く小屋の鐘の音を聞き

ようやくたどり着いた

一軒だけの山小屋でした。

ここでウサギの肉や

あざみのてんぷらをいただきましたが

40年ぶりという嵐に会い

みんな小屋に閉じ込められました

そのとき

小屋の主人が歌ってくれたのが

たしか

むぎや節・・・

でした。

若い主人で

まるで立山の雪渓に

磨かれたような

清々しい人でした。

あれ以来

山の魔力

じゃない

魅力に取り憑かれた青春でした。

立山が不便だった

最後の年のころのことです。


遠い記憶ー姫路城ー

2016年10月09日 | 日記

戦争の気配がまだなかった頃

私の家の門を出ると

右側の空に

姫路城が聳えていました。

お城を背にして

幼稚園への道を歩いて行きました。

ベーカー幼稚園と言いました。

そこでの記憶といったら・・・

おばあさん先生が

「満州の国旗を塗りましょう」

見本を見せて

私らは横何本かに引かれた

線と線の間を

5色だったか7色だったかの

クレヨンで塗って

いきました。

そんな時代だったのですね。

覚えているのはそれくらい。

記憶力の乏しい子どもだったのです。

けれどもあの時代

両隣の家族にも子どもたちがいて

まるで

兄妹姉妹のようにしていました。

母親同士もそうでした、

道には子どもの声が溢れ

チョコレートだってあったのでした。

そして私らは間もなく

引っ越して関門海峡を越えました

五歳の私は

「海の底を列車が走ったら

お魚が見える」と

本気で信じておりました。

開戦前のひととき

平和が終わろうとする

時代のお話です。

 

 

 


思い出の通学列車

2016年10月08日 | 日記

戦後間もない頃のお話です

兵庫県豊岡と京都丹後を結ぶ

宮津線という列車は

私らの通学列車でした

私らは豊岡の学校にかよっていたのです。

まだまだ食べ物もなくて

疎開家族の私らは

毎日毎日

飢えておりました

列車の中はいつも

若い声、若い空気でいっぱいでした。

憧れの先輩がいたりして。

そんな中に一人

元軍人の娘で

同級生のAさんがいました

美しく聡明な少女でした

私は間もなく

遠いところに引っ越したので

彼女とはそれっきりに。

70歳になったころ奇跡が・・・

偶然彼女と再会したのです

女医さんになっていました

いや、もう引退した女医さんでした

が・・・

間もなく被害妄想のようになって

音信が途絶えました

会うんじゃなかった・・・

と思いました

あの美しい少女の面影のまま

私の記憶を彩っていてほしかった

けれど

現実はそういうもの

なのでしょうか。

 


石舞台の記憶

2016年10月07日 | 日記

思い出は尽きませぬ・・・

はるかな昔

飛鳥路は石舞台を目指して

とぼとぼと歩いて行きました、

行き着いてみれば゛

田んぼの中にぽつんと

いや

どっしりと

夕日の中に

ありました。

だぁれもいない田んぼです

私ら二人

田んぼのあぜ道を歩いて

たどり着き

石舞台のてっぺんに登って

葛城山に落ちる入日を眺めていました

けれど

帰りの道は桜井までが

遠くて・・・

たまたまやってきた軽トラを

運転していたご老人に

頼み込んで

乗せてもらいました

ご老人はよしよしという感じで

桜井の駅前まで乗せてくれたのでした。

しーんとしたあの

田んぼの中の石舞台は

いまはもう

入場料を払って

コンクリートできちんと整備された

真ん中にあるのです・・・

そしてしんと静まり返っていた

あの周りには

何台もの観光バスが

ひしめいております。

私はいまは「浦島太郎」

遠い記憶の持ち主はこうして

消え去ってゆくのでしょう。