人生の階段ー日々の詩に託してー

ある老婆の日々ーー

はるかな昔ー飛鳥川ー

2016年10月06日 | 日記

結婚して間もなくの頃

若い二人はまだ学生で

飛鳥地方や東北を旅したり

していました。

貧しい旅ですから

旅館なんてとんでもない

野宿と夜行列車です。

あるとき飛鳥川のほとりで

飯ごうでご飯を炊きました。

水は近くの家からもらって。

清らかな水に足をつけたりして

若いときにはいろんなことが

できるものですね。

ずっとあとになって

万葉集に素敵な歌があるのを知りました、

許されぬ恋をした皇女(高市皇子の妻)が

穂積の皇子に恋をするのですが

人目があるので朝早く飛鳥川を越えて

恋人に会いにゆくという歌。

{人言を 繁み言痛(こちた)み己が世に いまだ渡らぬ朝 川渡る}

いいなあ、大胆で清冽で

と思う私は

結婚してから家族を捨ててまで

と思う人には出会うこともなく

一応責任を全うしつつ

人生の終わりを

迎えようとしています。

あの飛鳥川

あの頃はあたりも

まだ人家も少なくて

川辺でご飯も炊けたのでした。

清冽な川辺の思い出です。


遠い記憶ー津軽海峡ー

2016年10月05日 | 日記

学生時代のこと

急用ができて

京都から北海道に

行くことに。

浅虫海岸では

列車はしぶきがかかりそうな

すれすれのところを

走っていました。

そしてーー

青森についていざ青函連絡船に

乗るときになってアナウンス

「津軽海峡に魚雷が発見されたので

今夜は運航中止」・・・

お客はみんな青森駅のあちこちに

寝そべって一夜を明かしたのでした。

三月でしたから

まだまだ寒い。

だれかが毛布を貸してくれました。

あれはだれだったのか

どうして毛布を余分に持っていたのか

それとも自分の分を

貸してくれたのか

親切な人たちのいた

北帰行でした・・・

そして朝になると船は

私らを乗せて無事

函館に着きました。

北海道への道が

海の上だったころのお話です。

それにしても

北の人たちは

なんと暖かい心を持っていたことか、

寒い空の下では

ひとの心は暖かくなる

のでしょうか。

 


哲学の道

2016年10月04日 | 日記

はるかな昔

京都は「哲学の道」の近くに

下宿していました

いつ歩いても

しーんと静まりかえって

だれにも会うことのない

静寂の道でした。

とりわけもうひとつ

上の道などは

昼でもちょっと怖いくらい

深い木立の静かな道で

法然院は魂のよりどころみたいな

雰囲気をたたえていました

それが・・・

哲学の道は今や

観光道路になってしまい

法然院は・・・

こないだ新幹線で隣に座った

アメリカの若者が

「法然院を訪ねる」

と言ったのには仰天しました。

魂の故郷は

こうして侵されていくのでしょうか。

寂しい話でした・・・


遠い記憶ー有名人の子ー

2016年10月03日 | 日記

学校ではたいてい

ある有名人の子供がいた

って記憶がありませんか?

とりわけ戦争の疎開時代

田舎の学校に疎開してきた生徒たち

の中にいたのでは?

私のクラスにもいましたよ

例えば

三宅雪嶺の孫の三宅さん

ー色白で背が小さくて可愛い人ー

梅津なんとかいうえらーい

軍人の娘さん

ーとてもしっかりした子でしたー

画家田村孝之介の娘さん

ー姉妹ともに大変な秀才でしたー

そして高校時代になると

もう戦後でしたが

忘れられない子が

いました。

有名人の子ではなかったけれど

転校生で寄宿舎に入ってて

なんとも孤独な

清冽な雰囲気の子で

たちまち「有名人」になりました。

そして他の無名の生徒たちも

きっと今頃

元気で老後を送っているか

あの世で元気にしていることでしょう。


キムさん

2016年10月02日 | 日記

昔々のことです

私は三年生で

同じクラスにキムさんという

朝鮮の女の子がいました。

ある日

学校でのこと

階段の下にキムさんが立ってて

階段の上には女の子たちが

群れていました。

女の子たちはみな

キムさんを避けていましたが

私ひとり

キムさんと二人で

まりつきをしているのです。

そんな様子を階段の上から

みんな馬鹿にしたみたいに

眺めていました

私はキムさんが差別されているのを知ってて

敢えて一緒に遊んだのです

小さな小さな正義感。

でもやっぱり思うのです

日本人はみんなして

「チョーセン」を馬鹿にして

いたのです。

だからその恨みと反日は

「千年たっても」

「10億出しても」

変わる事はないのかもしれませんね。

台湾の親日ぶりは

どこに理由があるのでしょうか

そういえば

「タイワン」と馬鹿にしたりした

日本人の記憶は

私の中にはありませんから

そこはなぜなのかわかりません。

いずれにしても

あの階段の下での

まりつきは

なぜか忘れられません・・・