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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「せいの神」という違和感から その11

2023-06-01 23:44:37 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その10より

 その10では竹入弘元氏の著書『伊那谷の石仏』(昭和51年 伊那毎日新聞社)から竹入氏の捉えている火祭りの周辺を解いてみた。何といっても竹入氏の調査事例が盛りだくさんなものが『長野県上伊那誌民俗編』である。「民間信仰」の「道祖神」の項は、63頁に及ぶもので全て竹入氏が調べて記述されたもの。上伊那郡内の道祖神をほぼ全て一覧化したもので、何といっても信仰行事を実際に聞き取った事例をたくさんあげられていて、これ以上の道祖神関係の調査は、もはや不可能である。伝承性の強かったかつての時代の「道祖神」の存在をよく捉えたものとして、この後に長く活用される調査報告といえる。最後に『長野県上伊那誌民俗編』で捉えている「道祖神」と「火祭り」を紐解いていくこととする。

 まず民間信仰の「道祖神」に記されている「さいの神、岐神」を捉えた記述を捉えてみよう。

 さいの神、岐神を主として見ると、日本の上古に既に「さいの神」や「ふなどの神」の信仰が民間に広まっていたことは記紀の神話等によってわかる。村落内に外敵・悪疫の侵入するのを防ぐ神としての性格をもつこれらは最も古いものである。この名称は全国的に流布しているし、上伊那でも全域にわたってさいの神(さえの神・せーの神)という名が使われていたし、今なお使っている所も残っている。それは山間地に多いが伊那市美篶や境区・山寺区のような町部でも聞かれる。
 どんど焼を「せいの神を焼く」と中箕輪下古田等各地で言った。従って、どんど焼の際の唄にも「せーの神」が出てくる。例えば中沢では昔、正月十五日の晩「せ―の神を笑えやい」と皆集って次のようにうたったという。
〇せーの神の神様はいじのむさい神様で、だんごくわえて木い登る、人参くわえて木い登る、ごんぼうくわえて木い登る
〇せーの神の神様はいじのむさい神様でさんしょの木い登るとて ベベヘとげをつっかげた
 また各部落に1ヶ所位、小字名や屋号として「さいの神」というのがある。
 東伊那本火山の下平武敏氏宅は屋号をさいの神という。そして道祖神はそのすぐ裹の山の急な斜面にある。同家夫人の案内で上って行き、夫人が「この辺にある筈だ」とみると茶碗が落葉に見えがくれしている。「ああ、厄投げの茶碗があるで確かここだ」と探すがどうも見当らない。どこかへ転落したか、埋ってしまったか、ともあれ人頭大の奇石だったという。つまり、注意をひいたのはこの場所が部落はずれの裏山だという点である。
 中川村南向高嶺銭のさいの神という旧道峠の辻に奇石道祖神があるという。「伊那路」昭和三十七年十二月号に田畑清美氏が「ここに『道祖神の大栗』といわれている栗の大樹かある。樹のある処は、大嶺山を越えて来て、ようやく銭部落が見え、ここから一息に部落へ下る尾根の鞍部で、又峰部落から上って来た旧道の峠頭になっている三辻の場所で標高九二〇米の高所で、地名才ノ神といい、この栗の樹の根元に道祖神を祀ってある。」と報告されている。昭和四十五年には、この栗の樹は倒れ、道祖神は発見できなかったが。
 右の二例や他の多くの場所をみると、概してさいの神という土地は村の外れであり、あるいは山々谷を控えている。つまり、村内に悪霊の入り来るのをその出入口で塞ぎ防ぐ神としての性格がここに窺われるのである。
 ところでさいの神・岐神の碑の建立年は高遠町三義原の「さいの神」が寛政四年、伊那市東春近渡場「岐神」が天保六年と古いが他はいずれも明治時代とみられ存外新しい。(945頁から946頁)

 「さいの神」について触れているように、道祖神が元来は塞の神であったものが、しだいに「道祖神」と変化してきたという向きで捉えられている。碑石は「道祖神」であるものの、呼称や歌に「さいの神」が残存する。その「さいの神」は「セーの神」とも呼ばれ、両者は同一のものという捉え方である。さらに地名に残る「さいの神」はより一層古い時代の道祖神を表す証ともなっている。「この名称は全国的に流布しているし、上伊那でも全域」に渡るとされており、確かに伊那に限られたものではなく、記述にもあるように箕輪町下古田の歌や駒ヶ根市東伊那火山の屋号をさいの神と称す例、あるいは中川村南向高嶺銭のさいの神の例があげられている。とりわけ火祭りの際に唄われる歌に「せーのかみ」が登場する例は多い。

 こうした呼称の混在は、いわゆる神である形を示した碑石を「どうろくじん」と称しながら碑文には「道祖神」とあり、その場所一帯を「さいの神」と称しながら火祭りを「せーの神」と称し、火祭りのやぐらを「おんべ」といい、厄投げは「どうろくじん」にする、といった不当一な呼称世界をつくりあげてきたとも言える。こうなるとどれが本当なのかはっきりしなくなる。信仰そのものも多様ながら、呼称も多様な姿を見せてきたわけである。

続く


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