Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

葬儀のこれから[21]

2013-02-23 23:53:38 | ひとから学ぶ

葬儀のこれから⑳より

 当事者となるまであまり「枝義理」のことは知らなかった。封筒の右上にわたしの名を書き添えてある香典がいくつかあり、それが枝義理を意味するものと知った。葬儀の翌日、いくつか束になった香典袋を兄に渡されて解かったこと。「お前の名前が書いてあるから」と言って渡されたわけである。いただいた方達の名前を見て気づいたのは、わたしの中学時代の友人たちがまとまって参列した際のもの。打ち合わせたように右上にわたしの名前が書かれている。同じようなものは友人以外にもいくつかあったが、そのひとつは父の姉ですでに息子に会社を譲っている従兄弟の宛名のあるもの。代替わりしているが、伯母さんからのものと受け取れる。そこでは兄名義と、わたし名義のふたつの香典を用意してきているのである。まさに枝義理。ようは兄も分家したわたしもそれぞれがおばさんの家とは今後も義理をしていくという表現なのである。これを前回問題にした「次男が集まった香典の中から自分に関係のある会社関係とか個人的なものを自分のもだと言って持ち帰りました」という事例に照らしてみよう。葬儀後に誰がその義理を果たしていくか、と考えると、喪主が次男の関係者で葬儀が発生した際にその香典を出すわけではない。次男がそれを果たしていくことになる。ということは確かに香典は次男が受けるものと言えるだろう。その上で当然のことだが、葬儀にかかった費用に対して、喪主のみではなく次男も応分の負担をするのが正しいと言える。こうした部分がどうされているか説明がないと、安易に批判できるものではないのである。

 とはいえ枝義理の考えが浸透しているわけではない。叔父・叔母といった父の兄弟の中で、こうした枝義理をされた方は前述の伯母さんだけである。今後のつき合いがどうであれ、いずれにせよ父の兄弟に対しては今後も義理を果たしていかなくてはならないが、枝義理をしたしないはそこには無関係だ。さらに言えば、同じ友人でも、枝義理を意識しなかった者もいる。そうなると、宛名があったからといって割り切るには複雑である。といって前回の例のように「これはわたしのものだから」などといって要求などできるものではない。そもそも枝義理を知らなかったのだから。

 続く


コメント    この記事についてブログを書く
« 葬儀のこれから⑳ | トップ | 衣生活 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事