神事終了
大庭小路三峯様(右端)
午前9時半ころ、三輪神社の神主さんを迎えに行かれる。ここからそう遠くないので、間もなく神主さんが到着。一応並べられていた供物を並び替えた後、用意されてきた垂をオヤシロの四方につけ、玉串などが準備されると、いよいよ神事である。分区長による挨拶に始まり、神主さんによる神事である。天候の下で行なわれる神事であるが、この既設おおかた天候の良い日が続くが、悪天候だったらどうにるのだろう、などということを考えながら祝詞を聞いていると、その内容は寺小路の安全を願うような内容が並んでいて、三峯様への願いは総合的だとわかる。そもそも三峯様とはどんな信仰なのか、そう問うと、「火の神様」だと言われる。併祀されている秋葉様も火の神様であるから、どちらが先に祀られたものなのか、また、なぜ併祀されているかはわからない。さらに真ん中に祀られている「庚申」は、風化していて現在ではなかなか読み取りにくいが、「延宝八年」とあり、西暦1680年造立と古い。長老の方によると寺がここに移転してきたのが300年ほど前と言われるから、そのころ建てられたものということになる。ムラの起こりもそのころのことか。
オヤシロに納められるお札は、「火防之神璽」「御祈祷神璽」「盗賊除神璽」に加え「御眷属拝借之牘」である。「御眷属拝借之牘」には「諸難除火防盗賊除」とあるから火の神に加え、盗賊除け、さらには「諸難」を取り除くと、多様なことが解る。ちなみに更新されるまでは「火防之神璽」が前面であったが、葺き替え後は「御祈祷神璽」が前面となっていた。とくに意識されているわけではなく、たまたまなのだろう。大きいお札になる「御眷属拝借之牘」がオヤシロの最も奥に置かれることは毎年のことのようだ。祝詞奏上後の玉串奉奠は、分区長に始まり、下辰野の区会議員、長老お二人といった方たちによって行なわれる。時間にして20分ほどで神事は終わり、御神酒をその場で頂き、祭りは終わりとなる。
お札については、神主さんが三峯神社から取り寄せる。神主さんがかかわるエリアは下辰野区のみのようだが、区内では、寺小路を含め新屋敷、大庭小路など7、8箇所で祀られており、「地域を護っていただいている」とは神主さんの言葉である。このように下辰野区には三峯様を祀るところは多く、『長野県 上伊那誌 民俗篇上』における「三峯講」の項にも、下辰野の昭和43年の杉の葉で葺いた祠の写真が紹介されており、さらに「平出の法性神社の境内には戦前までは、各講で杉の葉で丸く囲った祠を作って、その中にお札を祀ってあり、毎年杉の葉で葺き替えをした」という記述が見られ、辰野町あたりに盛んであったことがわかる。上伊那南部で生まれたわたしにとって、あまり三峯様は身近ではなく、火の神といえばやはり秋葉様だった。近くに三峯様の祭られた姿がなかったが、気にしなかっただけで、実際は祀られていたのかもしれないが、前掲書の扱いから見ても、上伊那ではそれほど信仰が篤いというふうではない。
さて、この葺き替えする行為について、八ヶ岳原人さんが公開している「諏訪大社と諏訪神社」のページに富士見町乙事の下社跡に祀られた三峯様のことが記されている。確かに覆屋の中の真ん中に奇石が祀られていて、知らない人はその石が神様だと思うだろうし、わたしも今年初頭盛んに富士見町を訪れていた際にこの姿を見てそう思ったものだ。しかし、八ヶ岳原人さんによれば、神様は「御眷属拝借之牘」の方で石は「誰かの思い付きで、絶体にやってはいけない「石の御神体」を据えてしまったのでしょう」と言う。確かにそのとおりなのかもしれないが、ではなぜ新たな御神体が据えられたのか、それも民俗学の視線で見れば注目したい部分でもある。ようは、寺小路は現在も杉の葉で葺き替えを毎年行なっている。聞けば東隣の大庭小路も同様に葺き替えを行なっていたが、石祠に変えてしまった。石祠には「平成九年四月吉日建之 大庭小路分区」とある。まだ最近のことである。
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