このところ「分水工を探る」余話において尺貫法のことに触れてきた。そして余話⑤において坂戸橋(上伊那郡中川村)のことについて書いたが、ちょうど桜の季節が到来して、坂戸橋の桜の様子はどうなのかと、合い間を見て出かけてみた。久しぶりに「坂戸峡の桜」(坂戸橋のあるところは坂戸峡と言われている)を意識してみて気がついたのは、ずいぶんと桜の木が衰えているということだった。国道153号の交差点から坂戸橋の取り付け道路に入るわけだが、その道路沿いの桜はもっと賑やかだったと記憶する。よくみれば老木の頭の方にはほとんど花がついていないものもあり、垂れ下がる花のアーチの下を潜るような印象はだいぶなくなっていた。まだ満開には少し早いという印象であったが、坂戸橋に来たついでにやはり古い施設で今も健在な中川村渡場にある南向(みなかた)発電所に寄ってみた。中川村でも最も標高が低いところにあるだけに、こちらは桜が満開に近い。現役で利用されているだけに発電所の壁は古さを感じさせないだけ手入れがされているようだが、造りそのもののデザインなどはまさに遺産的な趣を見せる。
この発電所は昭和2年に着工されて昭和4年に竣工、同年に運用が開始されている。西天竜幹線水路の完成が昭和3年だから供用開始したのは同じ頃のこと。駒ヶ根市の南端にある吉瀬で天竜川をせき止めて取水し、現在の旧南向村にいたるまですべて隧道で導水されている。明らかに発電所用の導水路だと解るほど地上に明解な姿を現すのは発電所のある葛島(かつらじま)に入ってからのこと。この間急峻な山肌の中に隧道は造られていて、平行している主要地方道伊那生田飯田線すらその拡幅に難渋するほどの地を導水されているのである。日本の電力翁として知られる福沢桃介によって建設された発電所で、福沢桃介が建設した発電所では氏の最後のものと言われる。天竜川流域よりも木曽川流域の水力発電に情熱を注いでおり、木曽谷に福沢桃介の残した構造物がいくつも現存する。
昭和6年に生まれた葛北の男性にこんなことを聞いたことがある。「水路ができたときは、有刺鉄線が張ってあるだけだった。蘭花のところに高い橋があって、そこから飛び込むと5、6メートルあった。そこから飛び込んで泳いで、余水吐のところで登った。3年生くらいから水路で泳いだ。底の中に入ったような感じで、気持ちはよくなかった。渡場の衆は放水路のマンホールを開けてそこから飛び込んで泳いだ。ここのカーブのところに来てはアユやアカウオを引っ掛けをした。暗渠の出口で引っ掛けをすることもあった。」というもの。「水路」とは発電所への導水路のことで、前述したように地上に姿を現した導水路はそれほど長い距離ではなかったが、子ども達が水泳をするには十分な長さだったのだろう。段丘を落とす送水管になる前に余水吐があって、そこまで泳いで上がったのだろう。とはいえ、「底の中」という印象を口にされたように、とても気持ちの良いものではなかったのではないだろうか。そのまま流されてしまえば命さえ落としかねない環境で遊んだのだから、その時代の子ども達の強さと言うか冒険心を教えられる。「放水路」は発電利用された水が天竜川に放流されているのだが、その距離もそこそこある。この間はやはり暗渠になっていて、地上にあるマンホールの蓋を開けて飛び込んだと言うのだ。導水路に比較すれば安全な印象はあるが、とても今では考えられないような遊びである。
発電所の入り口には福沢桃介の胸像がある。背面には
「昭和五年建立 昭和十九年供出 昭和四十三年復元」
とある。この胸像も戦争にかり出された。実は発電所直上の送水管は現在2本であるが、もともとは3本あったという。戦争によって1本供出されてしまって現在に至るというわけだ。
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