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豊丘村を歩く⑤

2014-09-05 23:41:32 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く④より

 昭和5年に改修された畑田井も、年月を経てコンクリート水路に亀裂が生じたという。南側、そして東側に山を背負った山腹には日当たりが悪いという条件もあっただろう。河野村の北端に位置する滝川地籍の周囲は、水路を設置するには条件が好ましくなかったというわけだ。この条件をクリアーするべく、昭和28年に滝川集落の北東、足倉から滝川地籍の南側の沢、北洞にかけて等高線沿いを山腹に這わせた水路をショートカットするような隧道の計画が持ち上がった。『豊丘村誌』によると、この計画はすでに明治26年に企てられていたという。その際には実現しなかった計画なのだが、難所をパスするにはこの方法しかなかったわけである。計画概要には次のように記載されている。

工程 足倉地籍から北ノ沢に至る総延長六九五米(内隧道六百六十米 開渠三十五米)
   隧道の高さ一米六○ 幅一米二○ 巻立一三一米
総工費 五百四万円(内当初四八八万円)後工事及び巻立八五万八千円
工事担当者 飯田吉川組
着工年月日 昭和二十八年
竣工年月日 昭和三十年二月
(『豊丘村誌』より)

 昭和30年4月に旧河野村は現在の豊丘村に合併している。ようはこの事業は河野村最後の記念碑のような大仕事だったのである。迂回していた水路が約1500メートル。それに対して約700メートルと、水路延長は半分以下になった。

 実は昨日のことであるが、この昭和30年に完成した隧道に入った。仕事がらこれまでにも多くの隧道にもぐったことはあるが、背を伸ばして歩けない隧道で700メートル級は初めてである。高さ1.6メートルとはいうものの、勾配が緩いためか土砂が堆積している。とくに隧道手前の沈砂池から土砂吐へ水を払って隧道内の水を止めると、上流に向かって水が流れ出す。まるで上下反対になったように。止水して数時間経っても、隧道内に溜まっている水が上流に流水するのである。そんな上流口から隧道内に入ると、溜まったヘドロのような土砂に足が取られる。堆積して高さのなくなった隧道内は場所によっては這って進むほど。風化花崗岩というと最近広島の災害で話題になったが、この隧道内もかなり風化が進んでいて、ところどころ崩落したためかコンクリート巻立が施してある。200メートルほど進むとようやく堆積土が少なくなって足が取られることはなくなる。そして370メートルほど進むと隧道の天井が急に高くなる。しばらくはそんな高い天井の下を背を伸ばして歩く。聞くところによると、隧道は上下から掘り進んだというが、貫通すると、上流側よりも下流側が高い位置に出たという。ようは貫通部に逆段差ができてしまってこれでは水が流れない。そこで、隧道を掘った際に利用したトロッコのレールを撤去しながら、下流側の底を削っていったという。ということで下流側の天井が高いというわけなのだ。ところがもともとそれほど勾配のない隧道だから、上流側は平ら、あるいは若干の逆勾配のままで、結果的に土砂がたまってしまうというわけなのだ。あまりの土砂堆積とその距離が長いということもあって、地元でも管理できないでいるのが実態のようだ。昭和30年ころといえば既に技術的には現在に通じるレベルだったと思うのだが、この失敗がいまだに水利関係者の頭を悩ませている。

 隧道に入る前には地元の人でもなかなか入ったことない隧道だということで、いろいろの噂があった。ようは「大丈夫なのだろうか」と。胸元あたりまで深いところがあるんじゃないか、あるいは崩落していて危険なところがあるのではないか、とか。これまでに鳥肌の立つような危険な隧道に入ったこともあり、そんな経験と比較してもそんな心配は無用だった。


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