Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝泉〟出ずる

2017-09-12 23:25:53 | ひとから学ぶ

 義理の母の通夜だった。かつて通夜を葬儀場でやっている姿を見て、「通夜くらい家でしてあげれば」、そう思っていたものだが、今では我が家でも葬儀場で通夜をするようになった。義父の際もそうだった。理由は明解だ。元気な故人の兄弟たちも90歳前後になってきて、畳の間に座るのも大変で、昔の家ともなると尚更段差や狭さに制限される。そのことを思えば葬儀場のよあにフラットで、椅子に座る環境なら通夜に参加してもらいやすい、ということになる。トイレも広いし、気遣いも低減される。そういう面のメリットを求めて、葬儀場での通夜を選択している。少し違和感はあるが、老齢化した家の求める形なのかもしれない。

 妻の実家の檀那寺は、通夜経をあげに来てくれる。納棺の前に通夜経を上げると、納棺が終了するまで住職は傍で待っていてくれて、納棺が済むと再び経をあげると、戒名の説明をしてくれる。さらには通夜ふるまいにも参列してくださり、葬儀よりも長く家族とともに故人を偲んでくれる。わたしの実家の檀那寺とはまったく違う(同じ宗派なのに)。

 戒名には義父と同じ文字が頭につけられた。二人とも教員だったということが共通の字で繋げられた。その字は「智」だ。「智」とは「物事をよく理解する。賢い。」あるいは「物事を理解する能力。」とある(デジタル大辞泉)。そしてその下に付された「泉」という漢字について、妻も義弟も「なぜなんだろう」と戒名を聞かされた時に思ったという。もちろん「智泉」であるからなんとなくイメージはつくのだが、その意図には住職の思いがあった。その解説にその場にいたみなが心を動かされた。実は住職の寺の名前にこの「泉」がある。寺の名の1字をいただいたというわけなのだ。そのひとつの理由として、義母は7月に行われるお施餓鬼になると、毎年花をたくさんお施餓鬼のために届けたという。もちろん妻もそこに関わっていたことだろうが…。お施餓鬼を花でいっぱいにしてほしい、その思いが住職にとって嬉しかったという。そして二つ目の理由として、住職が中学生のころ、お盆に「経をあげに回ってこい」と先代に言われて経をあげに行ったという。その際「こんな小坊主をよこして」というようなことを何度か回る家で言われて、かなり落ち込んでいたという。そんななか妻の実家を訪れると、義母は「よく来てくれたなー」と労いの言葉をくれたという。その言葉が落ち込んていた心をずいぶんほぐしてくれたという。そんな優しかった義母への感謝を戒名に表してくれたというわけだ。悟りの世界におられても、きっとさまざまな人間模様を垣間見られていることだろう。そうした中で接した優しさや、心のありようは、悟りのをも動かす、ということなのだろう。感謝の心が満ち溢れるような風を感じた。


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