つんちゃをうちに迎えた日から、
自分ができる精一杯のことをした。
それまでの自分の生活とは違う世界があった。
朝寝坊のワタシが早起きして散歩に出かけ、
海が苦手だったのに、つんちゃが喜ぶのを見たくて毎週のように出かけ、
寒い日にコタツから一歩も出たくないはずなのに、冬の夜も、帰宅してすぐ暖かい部屋から散歩に出かけ、
毎年出かけていた海外旅行は14年間に1回だけ、社員旅行で行ったのみ、
友達と出歩くことよりつんちゃの待つ家に早く帰りたかったし、
何を置いても"つんちゃファースト"でいることが、何よりワタシが望んだことだった。
それは決してつんちゃのために自分の時間や、やりたいことを犠牲にしているという感覚ではなく、
自分自身の喜びとして選んだものだった。
その幸福なつんちゃとの時間を失った。
悲しいという言葉は当たらないという意見もあるかと思う。
充実した愛犬との日々があって、幸せな年月を送って
愛犬は幸せに旅立ったのだから、寂しさはあっても悲しくはない。と。
ワタシもつんちゃとの日々に、
自分の全力を注いだし、つんちゃからはそれ以上のものをもらった。
悲しいと思うのは違っているのではないか、と自問した。
思いを同じくしてくれる家族や友達がいて、
自分の考え得る供養の仕方を、そのように実行できて、
いろんな面で恵まれている環境にあると思う。
それでも尚、やっぱりつんちゃの姿が恋しく、
その姿を思い浮かべるたび、涙が出る。
どんなに力を尽くしたとしても、
喪ったことに対する感情は「悲しい」のだろう。
そして、お遍路の旅で、札所の1つであるお寺で、
ご住職が書れた本を購入して読んでみた。
映画にもなったのでご存知の人も多いかもしれない。
「ボクは坊さん」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/11/a0a2f5ef03f13b8984504598bee67017.jpg)
その中に、弘法大師の有名な言葉が載っていた。
「哀しいかな、哀しいかな、哀(あわれ)が中の哀なり。悲しいかな、悲しいかな、悲が中の悲なり」
著者であるご住職が引用するある小説家の言葉、それは、
「死んだ人に対して、僕たちができることは、その人のことをすこしでも、”おぼえている”ことだ」
死は本当に果てしない悲しみを含んだ存在だ。
しかし、それを覆い隠すことなく、ただそれを大事に扱い、思い出す。
そのことが亡くなった人にとっても、残った人にとっても大切な祈りのような回復の意味をもつことがある。
弘法大師は、仏教のことわりを知ってはいるけれど、涙を流さずにはいられない、悲しい、と重ねて言葉を発する。
弘法大師でさえも智泉という愛弟子の死を受けて、このような言葉を残しているのだ。
悲しいときは悲しい、でいいのだ、ということを
弘法大師のような人から言われたらほっとする。
自分の大切な存在だったのだから、
悲しみの感情が湧いてくるなら、精一杯悲しんでいいと思うし、
悲しみではなく寂しさで心の容量がいっぱいになるというなら
その感情が正直なのだから、無理に悲しみの容量を空けなくてもいいと思う。
ワタシの今は、このつんちゃへの思い、悲しみと喪失の状態を
どんな風に取り込むのか、それが課題になっているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/e5/8518d7c332d343d398962c7448ddd36a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/fe/2425a806b7dd6b3d91bc74244cf29ebe.jpg)
自分ができる精一杯のことをした。
それまでの自分の生活とは違う世界があった。
朝寝坊のワタシが早起きして散歩に出かけ、
海が苦手だったのに、つんちゃが喜ぶのを見たくて毎週のように出かけ、
寒い日にコタツから一歩も出たくないはずなのに、冬の夜も、帰宅してすぐ暖かい部屋から散歩に出かけ、
毎年出かけていた海外旅行は14年間に1回だけ、社員旅行で行ったのみ、
友達と出歩くことよりつんちゃの待つ家に早く帰りたかったし、
何を置いても"つんちゃファースト"でいることが、何よりワタシが望んだことだった。
それは決してつんちゃのために自分の時間や、やりたいことを犠牲にしているという感覚ではなく、
自分自身の喜びとして選んだものだった。
その幸福なつんちゃとの時間を失った。
悲しいという言葉は当たらないという意見もあるかと思う。
充実した愛犬との日々があって、幸せな年月を送って
愛犬は幸せに旅立ったのだから、寂しさはあっても悲しくはない。と。
ワタシもつんちゃとの日々に、
自分の全力を注いだし、つんちゃからはそれ以上のものをもらった。
悲しいと思うのは違っているのではないか、と自問した。
思いを同じくしてくれる家族や友達がいて、
自分の考え得る供養の仕方を、そのように実行できて、
いろんな面で恵まれている環境にあると思う。
それでも尚、やっぱりつんちゃの姿が恋しく、
その姿を思い浮かべるたび、涙が出る。
どんなに力を尽くしたとしても、
喪ったことに対する感情は「悲しい」のだろう。
そして、お遍路の旅で、札所の1つであるお寺で、
ご住職が書れた本を購入して読んでみた。
映画にもなったのでご存知の人も多いかもしれない。
「ボクは坊さん」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/11/a0a2f5ef03f13b8984504598bee67017.jpg)
その中に、弘法大師の有名な言葉が載っていた。
「哀しいかな、哀しいかな、哀(あわれ)が中の哀なり。悲しいかな、悲しいかな、悲が中の悲なり」
著者であるご住職が引用するある小説家の言葉、それは、
「死んだ人に対して、僕たちができることは、その人のことをすこしでも、”おぼえている”ことだ」
死は本当に果てしない悲しみを含んだ存在だ。
しかし、それを覆い隠すことなく、ただそれを大事に扱い、思い出す。
そのことが亡くなった人にとっても、残った人にとっても大切な祈りのような回復の意味をもつことがある。
弘法大師は、仏教のことわりを知ってはいるけれど、涙を流さずにはいられない、悲しい、と重ねて言葉を発する。
弘法大師でさえも智泉という愛弟子の死を受けて、このような言葉を残しているのだ。
悲しいときは悲しい、でいいのだ、ということを
弘法大師のような人から言われたらほっとする。
自分の大切な存在だったのだから、
悲しみの感情が湧いてくるなら、精一杯悲しんでいいと思うし、
悲しみではなく寂しさで心の容量がいっぱいになるというなら
その感情が正直なのだから、無理に悲しみの容量を空けなくてもいいと思う。
ワタシの今は、このつんちゃへの思い、悲しみと喪失の状態を
どんな風に取り込むのか、それが課題になっているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/e5/8518d7c332d343d398962c7448ddd36a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/fe/2425a806b7dd6b3d91bc74244cf29ebe.jpg)