世間にはいろんな価値観がある。
10人いれば10人の、
100人いれば100人の、
自分以外の人にそれぞれの価値観がある。
自分と違うもの、
全てを受け入れることはできないし、
全てを排除するのは問題だ。
今朝はとても嫌な思いをした。
「犬が嫌いな人もいるのだから。」
と、わざわざ離れた席にいる私たちに
「宣言」しにきたその初老の男性は、
あきらかに不粋な人だ。
広いスペースの一角に、
犬たちは走り回るわけでもなく、吠えるわけでもなく、
足元に静かに休んでいた。
ただそこに居る、というだけで理不尽な言葉をいきなり浴びせてきた、
高飛車な物言いのその男性をやり過ごすことはできなかった。
たぶん、彼は今までにもそういう発言を他でもしてきた人なのだろう。
そして、その行為に反論を受けたことがなかったのだろう。
彼が私たちに「退場命令」を下すための根拠のある理由は何一つなかったので、
私たちが返した言葉に筋の通った応答はなかった。
そのため、執拗に「犬が嫌いな人もいるんだから気をつかうべきだ」の主張を繰り返していた。
まるで水戸黄門の印籠みたいに、その呪文を唱えればひれ伏すだろうと。
「犬が嫌いな人もいる。」というこの言葉が曲者だ。
「も」を使えば、
「犬が嫌いな人も、犬が好きな人も、いる。」
という風になって、いかにも両方を同列化しているように見える。
文法的にはそうだが、実態はこの場合、そうはならないことを
よく含んだ使用方法なのである。
「犬が嫌いな人もいるから、気をつかえ」と使っても抵抗はないが、
「犬が好きな人もいるから、気をつかえ」と言ったらどうだろう・・・?
従って、犬が好きな人にはこの「も」は実質使用不可の「も」である。
不公平な「も」なのだ。
なのに、嫌いな人は如何にも平等な権利を与えているように「も」を入れている。
「犬が嫌いな人」という価値観を認めさせようとするなら、
「犬が好きな人」の価値観も同じように尊重すべきであろう。
だが、「犬が嫌いな人」は自分の立場が優先されて当然という意識を持っている。
そして、その彼らが(勝手に)持つ「優先権」は、
いつ・いかなる時にも発動できる、と勘違いしているところにギモンを持つ。
「犬が好きな人」の権利を全く無視するような状況下において、
「印籠」を出すことは「水戸黄門」の開始10分で角さん助さんが印籠を使うようなものだ。
印籠の「正しい使用方法」はやはり、悪代官が散々悪事を働いた後、
45分を過ぎてから出すものである。
いつでもどこでも、これでオッケーの大放出の印籠なんて、
「それがどうした?」って言い返したくなるだろう。
社会が変化し、以前とは比較にならないほどペットの存在が大きくなりつつある中、
ヒト社会の中で様々なトラブルも起こっている。
犬というだけで難癖を付けてくる人もいれば、
まわりに迷惑をかけても素知らぬ顔の犬連れももちろんいる。
だから、注意をする側も受ける側も、
常識的な判断を持ってすべきではないか。
「犬が居るだけで嫌だ。」と言われるのなら、
こちら側も「そんな人が居るだけで嫌なのだ。」と言いたい。
お互いに相容れないのであれば、
離れてやり過ごせばいいことじゃないか。
わざわざ近づいてそれを告げに来る必要があるのだろうか?
「江戸しぐさ」という言葉を以前、地下鉄のポスターで見かけたことがある。
傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと
肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと
こぶしうかし
電車などで人が乗ってきたとき「さあ、ここにおかけなさい」と言わんばかりに、こぶし一つ分、ちょっと腰をうかしてずれていくしぐさのこと
そんな共生の術を日本人はいつの間にか失っている。
時と場合を選ばず「犬嫌権」を振りかざす不粋な者には、江戸の粋は通じないのかもしれない・・・。
10人いれば10人の、
100人いれば100人の、
自分以外の人にそれぞれの価値観がある。
自分と違うもの、
全てを受け入れることはできないし、
全てを排除するのは問題だ。
今朝はとても嫌な思いをした。
「犬が嫌いな人もいるのだから。」
と、わざわざ離れた席にいる私たちに
「宣言」しにきたその初老の男性は、
あきらかに不粋な人だ。
広いスペースの一角に、
犬たちは走り回るわけでもなく、吠えるわけでもなく、
足元に静かに休んでいた。
ただそこに居る、というだけで理不尽な言葉をいきなり浴びせてきた、
高飛車な物言いのその男性をやり過ごすことはできなかった。
たぶん、彼は今までにもそういう発言を他でもしてきた人なのだろう。
そして、その行為に反論を受けたことがなかったのだろう。
彼が私たちに「退場命令」を下すための根拠のある理由は何一つなかったので、
私たちが返した言葉に筋の通った応答はなかった。
そのため、執拗に「犬が嫌いな人もいるんだから気をつかうべきだ」の主張を繰り返していた。
まるで水戸黄門の印籠みたいに、その呪文を唱えればひれ伏すだろうと。
「犬が嫌いな人もいる。」というこの言葉が曲者だ。
「も」を使えば、
「犬が嫌いな人も、犬が好きな人も、いる。」
という風になって、いかにも両方を同列化しているように見える。
文法的にはそうだが、実態はこの場合、そうはならないことを
よく含んだ使用方法なのである。
「犬が嫌いな人もいるから、気をつかえ」と使っても抵抗はないが、
「犬が好きな人もいるから、気をつかえ」と言ったらどうだろう・・・?
従って、犬が好きな人にはこの「も」は実質使用不可の「も」である。
不公平な「も」なのだ。
なのに、嫌いな人は如何にも平等な権利を与えているように「も」を入れている。
「犬が嫌いな人」という価値観を認めさせようとするなら、
「犬が好きな人」の価値観も同じように尊重すべきであろう。
だが、「犬が嫌いな人」は自分の立場が優先されて当然という意識を持っている。
そして、その彼らが(勝手に)持つ「優先権」は、
いつ・いかなる時にも発動できる、と勘違いしているところにギモンを持つ。
「犬が好きな人」の権利を全く無視するような状況下において、
「印籠」を出すことは「水戸黄門」の開始10分で角さん助さんが印籠を使うようなものだ。
印籠の「正しい使用方法」はやはり、悪代官が散々悪事を働いた後、
45分を過ぎてから出すものである。
いつでもどこでも、これでオッケーの大放出の印籠なんて、
「それがどうした?」って言い返したくなるだろう。
社会が変化し、以前とは比較にならないほどペットの存在が大きくなりつつある中、
ヒト社会の中で様々なトラブルも起こっている。
犬というだけで難癖を付けてくる人もいれば、
まわりに迷惑をかけても素知らぬ顔の犬連れももちろんいる。
だから、注意をする側も受ける側も、
常識的な判断を持ってすべきではないか。
「犬が居るだけで嫌だ。」と言われるのなら、
こちら側も「そんな人が居るだけで嫌なのだ。」と言いたい。
お互いに相容れないのであれば、
離れてやり過ごせばいいことじゃないか。
わざわざ近づいてそれを告げに来る必要があるのだろうか?
「江戸しぐさ」という言葉を以前、地下鉄のポスターで見かけたことがある。
傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと
肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと
こぶしうかし
電車などで人が乗ってきたとき「さあ、ここにおかけなさい」と言わんばかりに、こぶし一つ分、ちょっと腰をうかしてずれていくしぐさのこと
そんな共生の術を日本人はいつの間にか失っている。
時と場合を選ばず「犬嫌権」を振りかざす不粋な者には、江戸の粋は通じないのかもしれない・・・。
つっきーさん!なんともうまい言い回しです。
リズママもつっーさんもすばらしい!!
私たちの横に座った女性の方が、ニコニコと暖かい目で見てくれていたよね~~
おじさん見てくれていたかしら?
仲良く共存したいのにね・・・・
以前に 「その席使いたいんだけど空きませんか?」みたいな言い方されて 追い出されるように席を譲ったこともありましたよね
何だか後になって腹が立ってきたりして・・
もう少し言い方考えたらいいのに。。。イイ歳してるんだからさ
自分もそんな言い方するような人にはならないように気をつけよーっと
自分が嫌いなら近づいてこなければいいのに!と思います。
マリンままのいうように、あの後お隣りに座った女性がニコニコと話しかけてくれたことで、少し気分が癒されました。
フキゲンを伝染させるより、ゴキゲンを伝染させることの方がよほど自分自身にとっても、気持ちがいいことだというのがわからない人だったのでしょうね。
自分にとって心地よいことを強制するより、他の人にとっても心地よい、両立できる方法を考え行動するということができないものでしょうか。「強制」より「共生」という工夫を選択できる柔軟さを自分自身も見につけるよう心がけたいと思います。「他人のフリみて我フリ直せ」あの男性を悪い見本とすることにします。