千種姫の塚
時代は南北朝。後醍醐天皇の政治は、天皇・貴族を中心とする政治であった。貴族や社寺の保護に厚く、武士の恩賞や要望に応えることが薄く、武士層に大きな不満と失望を与えた。こうした政治情勢を背景に諸国の武士たちは建武の政治を打倒しようと立ち上がる。中心となったのが足利尊氏である。
尊氏は鎌倉幕府に反旗をひるがえし、新田義貞軍勢と戦う。尊氏、京都の石清水に陣を取るがこの戦いに敗れ、新田義貞軍勢に追われ京都を離れる…九州へと。その途中、丹波園部若森の地に千種姫(尊氏の妹)を残していく。若森の一宇(寺)で千種姫は兄(尊氏)の武運を祈り続けた。
尊氏再度、軍勢を立て直し京に攻め入り、…後に征夷大将軍となる。
丹波の地に残した千種姫の安否、生活が気にかかる。寺は戦火で荒れ果てていた。尊氏は一宇を立て直し、寺の名を「天下泰平・萬民普済」の為とし、『太平山普済寺』(臨済宗)に改めた。
本堂前から少し離れた別墓地内の小高い所に、伝千種姫がねむる塚(墓)がある。姫を偲ぶのには格好の場所であろう。
総高約85㌢、搭は「地・水・火・風・空」で構成された五輪塔である。
最新の画像[もっと見る]
- 普済寺の開山『天外梵舜』 2年前
- 普済寺の開山『天外梵舜』 2年前
- 普済寺の開山『天外梵舜』 2年前
- 玉岩地蔵堂の組物 南丹市日吉 2年前
- 玉岩地蔵堂の組物 南丹市日吉 2年前
- 玉岩地蔵堂の組物 南丹市日吉 2年前
- 八百比丘尼(やおびくに)の伝説 2年前
- 八百比丘尼(やおびくに)の伝説 2年前
- 八百比丘尼(やおびくに)の伝説 2年前
- 園部町船岡の道標 3年前