西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

ハントとラウダにまた会える

2014年02月06日 19時09分00秒 | エッセイ
 1976(昭和51)年、私は中学4年生であった。

 前年、原因不明の胸の苦しさに悩まされ、2学期の大半を欠席。今から思えば、学校嫌いを発端とした身体的症状による、一種の不登校の形だったと言えるかもしれないが、とにもかくにも、卒業は出来たとしても進学は無理ということで結局希望留年し、改めて中学3年生を仕切り直していた。

 しかし留年したからと言って、学校嫌いが治る訳ではない。むしろあまりにも環境が変わってしまったことで、かえって教室の雰囲気に馴染めず、翌年は1学期から欠席日数を増やすばかりとなっていた。それでは進学する為の留年が、意味のないものとなってしまう。何としても、無理やりにでも気力を振り絞って学校へ行く努力をしなければいけなかった。

 そして、私が学校へ行くきっかけのひとつとなったのが、友達を作ること。
 朝教室に一番乗りをした私は、兄に借りて家から持参したモータースポーツ専門誌「AUTOSPORT」の臨時増刊号を開いた。
 私は小学生の頃から自動車レースが大好きで、模型自動車やミニカーをたくさん持っていて、兄や友人たちとレースをしたり、テレビや雑誌などから得られるモータースポーツ情報を細かくチェックしたりしていた。
 その年、そんな私の胸を熱くさせるニュースがあった。自動車レースの最高峰とも位置づけられるF1(フォーミュラ・ワン)レースが、日本で初めて、富士スピードウェイで開催されることになっていた。しかも世界選手権の最終戦として行われ、マクラーレンのジェームス・ハントとフェラーリのニキ・ラウダによるチャンピオンシップポイント争いの決着が見られるということで、ファンの間ではこの上ない盛り上がりを見せていた。
 私が学校へ持っていった「AUTOSPORT」は、丁度日本初となるF1開催の特集号。折からのスーパーカーブームも手伝って、私の周りに一人また一人と同級生らが集まってきてクルマ談議に花を咲かせる毎日が始まり、それをきっかけとして多くの友人を持つことが出来、いつの間にか通学が楽しくなり、結果的に晴れて中学を卒業、高校進学を果たすことに繋がっていった。


 あれから38年……、あの年のF1のハントvs.ラウダがハリウッドの実写映画『ラッシュ/プライドと友情』となって、明日待ちに待った日本公開の日を迎える!
 私の人生に少なからず影響を与えてくれたと言っても過言ではない、あの日、あの時が、今、甦る。様々な思いを胸に、映画館へ足を運びたいと思う。



映画『ラッシュ/プライドと友情』予告編




(写真は1992年に発売されたCD)


ゆめのかよひぢ

2013年08月09日 13時40分00秒 | エッセイ
 つい先日のこと。

 深夜に目が覚めた。まず私自身が、寝言を言った。どんな言葉を発したのかはよく憶えていないのだが、確かにはっきり喋って、それがあまりにもハキハキしたものだったことに自ら驚いて、起きてしまったらしい。
 なんだ寝言か……、と思っていったん開けた目を再び閉じた途端、横に寝ていた妻が言った。

「短歌を止めるの?」

 何を言っているのか分からず、はてどう答えていいものか困惑している間もなく、妻がひと際強い口調で続けた。

「短歌はもう作らなくなってしまうの?!」

 矢継ぎばやに繰り出される妻の質問攻撃を遮るかのように、私は言った。

「寝言や寝言! ごめんごめん! 心配要らんから、もう寝て寝て!」

「寝言……? 寝言なの、そうなの? ふ~ん……」

 そうして妻も私も、また眠った。


 朝起きて、改めてその話をしたのだが、妻は全く記憶にないと言う。どうやら私の寝言を発端に、妻も寝言で応酬していたらしい。それにしても、私はいったい何を口走ったのだろうか? そして何故、短歌だったのか……?

 私たち夫婦、実は最近、百人一首の競技かるたに励む高校生らが題材になっているアニメ『ちはやふる』にハマっていて、その前の夜も遅くまで、二人して録画していたアニメをビデオで見ていた。恐らく夢中になってそれを見ていたのだろう、その流れを引きずったまま眠ったので、夢の中にまで百人一首や短歌といったものを登場させてしまったのではないかと思われる。

 
 立秋を迎えても、まだまだ猛暑で寝苦しい夜が続く。今宵は、さて、どんな夢を見られることやら。

コップ5杯の夕食よりも

2012年11月04日 12時26分00秒 | エッセイ
 私はこれまで、あんな夕食を体験したことがない。後にも先にも、あの日食した病院食、そのたった一度だけのことである。

「はい、おまちどおさま! 夕食ですよ!」

 入院していた私の病室に、看護師さんが笑顔で運んできてくれたトレーには、5つのコップが載っていた。食堂や喫茶店などでよく見るのと同じタイプのコップで、形は5つとも同じだったが、中身の色がそれぞれ微妙に色違いではあった。白濁色の少し透明度が違うものが2つと、あとは黄色っぽいのと茶色っぽいのとオレンジ色のと、それで5つ。勿論、全部液体。他には何も載っていなかった。

 もう十六年も前のことになる。仕事で単身、香川県の高松に住み始めて、二ヶ月ほど経った頃。急性の扁桃腺炎で熱が下がらず、医者に「二、三日泊まっていきなさい」と言われ、しばらく入院することになった。慣れない土地でのハードワークに、体が悲鳴をあげてしまったらしかった。そして入院して初めて出された食事というのが、そのコップ5つだけの夕食であった。
 それまで既に何度か入院経験のあった私だが、さすがにこれには驚いた。喉が腫れて酷く痛むので、刺激物や固い物を避けたメニューになることを想像してはいたものの、せいぜいお粥や玉子、豆腐なんかが並ぶのだろうと思っていたら、出てきたのは何と5色色違いの水、水、水、水、水。食欲も一気に失せた。

 単身生活をしていた中での急な入院だったため、身の回りの世話をしてくれる人もいないといった状況。それに入院した病院は、大きな病院ではなかったので院内に売店もなく、パジャマや下着といった着替えや洗面具の調達など、買い物もままならず、勤めていた会社の同僚には随分と世話を掛けた。

 そんな世話の掛けついでに、ひとつだけ頼みごとをした。ファーストフード店のハンバーガーを買ってきてほしいと、お願いしたのである。まさかコップ5杯の食事ばかりが何日も続いた訳ではなかったが、それでも毎日の病院食はあまり口に合わず、どうしても他の物が食べてみたくなったのだ。しかし、同僚である事務員の女性は、私の希望を聞くなり、やや怪訝な顔をして言った。

「ハンバーガーですか? そんなの美味しくないでしょ」

 無論、私としてもハンバーガーがジャンクフードであることは十分認識もしていたし、正直なところ、それほど大好物と言えるほどの食べ物でもないのは確かだったが、食事制限がないとはいえ、自由に食べる物を選ぶことができないという状況下にある入院患者としては、その時理屈抜きに食べたくなった物が、有名ファーストフード店のハンバーガーだったのである。それなのに「美味しくない」のひと言で片付けられてしまったのには、ちょっぴり切ない気分にさせられた。

 頼みごとをした翌日、同僚の女性は病室にやってきて、ひと通りの業務連絡をした後、忘れていたことを思い出したかのように、自分の持ってきた手提げバッグの中から、ファーストフード店の小さな紙袋を取り出した。紙袋には、ハンバーガーが1個だけ、入っていた。たった1個? 私には少々不満な数ではあったが、それより入院初日に、腹いっぱい胸いっぱいになりながら無理やり流しこんだ、あのコップ5杯の水の不味さを思えば、数が少ないぐらいの不満は、すぐに消えた。何よりも食べたくて食べたくて仕方がなかった、念願のハンバーガーに有り付けたことで、幸せな気持ちでいっぱいになった。

 ジャンクフードと呼ばれ、高価なご馳走でも何でもない、手軽なファーストフードのハンバーガー。しかしながら、私はあの日泣きそうになるぐらい美味しかったハンバーガーの味を、今でも忘れることができない。