西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

妻を泣かせてしまった

2009年05月19日 02時37分00秒 | 短歌
 久し振りに、短歌を二首、作った。

 まず、妻に冗談半分で「泣け!」と言って読ませたら、3秒で泣いてしまった作品から……。


ふり向かず

改札口を

行く義母の

小さき背中

妻と見送る


 先日、義母と会った。
 1月に義父が逝き、5か月。やはり一人暮らしは、寂しいようだ。
 妻と3人で楽しく話をして、食事をして……、義母はひと言……。

「別れた後が、寂しなる……」

 だから別れ際は、あっさりしている。
 挨拶をして背中を向けると、絶対に振り向くことはない。
 その姿が、改札口を通り、駅の構内へと進みゆき、小さな背中がどんどん小さくなって、やがて見えなくなる。
 妻と二人……、泣きそうになった……。

 その時のシーンを詠んだ歌だから、そら泣くわなぁ。

 泣かせっ放しも善くないので、もう一首、作ってみた。


アパートに

義父の遺影は

無けれども

林威助(リン・ウェイツゥ)が

妻に微笑む


 最近の当ブログ常連読者の皆さんには、恐らく説明は要らないであろう。
 ちなみに下記のページに、写真はある!
 http://hanshintigers.jp/goods/yelxblk/



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ゴリラは何も悪くないよ

2009年01月27日 12時30分00秒 | 短歌
 少し前のニュースになるが、気になっていたので、書くことにする。

http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000901190003

「ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ」

 この短歌に賛否両論、と言うより、批判の声がネット上を中心に数多く飛び交っているようだ。

 オノマトペ(擬態語・擬声語)は、短歌の代表的な技法のひとつで、これまでにもたくさんの歌が残っている。

「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」 永井陽子
「カラコロロ・カサコソ・タタタッ収骨とよばるる作業の音かわきゐつ」 川 明
「いずこより凍れる雷のラムララムだむだむララムラムララムラム」 岡井隆

 いずれも名立たる歌人らによる、名歌ばかりである。


 昔、私がとある短歌大会の授賞式に出席した際、ひとりの受賞者がやり玉に挙げられていたことがあった。「これは短歌ではない」とクソミソに批判する人もいれば、「これこそが短歌だよ」と褒め称える人もいた。同じ作者のひとつの作品でも、そんなにも意見が分かれるものなのかと、驚いた覚えがある。しかも授賞式の席での話である。

 短歌に限らず、芸能や芸術といった分野では、「これが正解」と、答えをひとつに絞ることは不可能に等しい。例え賞を獲得したところで、反面批判を受ける場合も多々ある。果たしてその賞ににどれ程の値打ちがあるものなのか、疑問に思うこともある。

 私は、たまに手紙に拙作の短歌を添えることがある。すると「素晴らしい句をありがとう」という返事をよくもらう。
 「ここで一句!」なんぞと叫んだあと、五・七・五・七・七をブツ奴もいる。
 あの……、短歌は「一句」じゃなくて「一首」と数えるんですけど……。
 さてゴリラの短歌を批判をした人々は、恐らくそれぐらいの常識はあるだろうと思いたいが……?

 「ぼくゴリラ~」という作品も、未熟さ幼さを感じることは確かではある。しかし、作者がこれを機に短歌の世界に没頭するようなことがあれば、どんな歌人に成長するかもしれない。可能性を秘めた短歌であり、また作者であると思う。

 私が思うに、賞や批判に一喜一憂し過ぎることなく、今後も己の道を邁進してもらいたいものである。

 最後に猫を詠んだ拙作を二首。


 ニャニャニャニャニャチュチュチュチュンチュンニャニャチュンチュン電線に雀ベランダに猫

 出身は野良でございと雨水を飲んでゴキブリムシャムシャニャーゴ

8月6日という日

2008年08月06日 13時48分00秒 | 短歌
 63年前の今日、父は広島の宇品港にいた。

 兵隊だった父は、朝、当番で辺りを巡回していたという。

 空襲警報が止んだ後、しばらくして1機のB-29が飛んできた。それが、エノラ・ゲイだった。

 やがてそのB-29が、何かを投下した。投下物は、すぐにパラシュートを開き、フワリフワリと、空に浮かんでいたのだそうだ。

 父は、それを眺めていた……。

 次の瞬間、辺り一面、オレンジ色の光に包まれた。

「熱っ!」

 全身に酷い熱さを感じた父は、その場で爆風に倒れた。咄嗟に耳と目を手で塞ぐ「伏せ」のポーズで、爆風が治まるのを待ったのだという。

 翌日、父は3km程離れた爆心地に入り、救援活動に従事。

「兵隊さん、この仇は絶対にとって下さい!」

 大怪我を負いながら、父にそう懇願する被害者もいたようだ。


 戦後当初……、父は自分が被曝者であることを認めようとはしなかった。あの惨状を目の当たりにした父にしてみれば、「本当の被曝者はこんなもんじゃない」といった思いであったのではないかと想像される。

 とは言え父は、やはりそれが原因ではないかと思われる症状に度々悩まされていたことも、実際あったらしい。
 しかし自分の将来を考え、また生まれてきた私たち息子の将来を憂慮し、その事実をなるべく認めようとはしなかったとも聞いている。

 そして、私が病弱だった原因が、原爆の影響ではないかと、その都度深く心配をしてくれていたそうである。

 その後何年も経って、父が母からの再三の勧めによって、被爆者手帳を受ける気持ちに前向きになったこともあったのだが、時既に遅し。複数の証言者が必要という条件を満たすことが困難と分かり、結局父は、生涯正式に被曝者と呼ばれることはなかった。


 毎年8月6日になると、そんな父のことを、そして僅かだが父が話してくれたことを、思い出している私である。



 ヒバクシャと呼ばれぬままに亡き父の語りし宇品の熱さを想ふ

たまには短歌を

2008年03月17日 09時37分00秒 | 短歌
 実家に帰ると、母が私に短歌の添削をして欲しいと言う。私如き、添削など偉そうにおこがましいのではあるが、まあ年に何度かのことではあるしと、引き受けた。ついでにこの場を借りて、披露してみたいと思う。

 先日、母が大阪城公園に梅の花を見に出かけた時に詠んだ歌である。


  太閤の城美しく甦り梅ヶ香匂う平成の空


 綺麗な情景を描いた歌ではある。しかし「美しく」という形容詞の間口が広すぎて、鮮明さに欠ける。また「香」と「匂う」の意味が重複している。そして「太閤」秀吉から「平成」へと、時代の移り変わりも表したかった気持は分かるのだが、これも今一歩躍動感に乏しい。
 そこで私は、こんな風に手を入れてみた。


  太閤の城甦り輝きて梅の香戦(そよ)ぐ平成の世に


 「輝きて」という具体的な言葉によって、より情景を明確なものに。「匂う」を削り「香」に統一。「世」によって時代を表す。「梅の香」を戦がせることで、その時代や世の中の動きを表す。また「輝き」や「戦ぐ」は、字面的に見ても「太閤」秀吉に繋がる意味もある。
 
 まあ、どれもこじつけと言われればそれまでかもしれないが、三十一文字の中で、どれだけ奥深い意味を持たせていくかといった、短歌ならではの趣向を踏まえて添削したつもりである。
 「てにをは」ひとつの使い方や、漢字や仮名の使い方、あるいは言葉の登場する順序を変えることによっても、内容が随分と違ったものになる。これは短歌だけではなく、日本語全般に言えることでもあるが……。

 とは言え、これは飽くまでも私個人の考えによる添削。勿論、これが正解というものではない。違った人がまた違った添削をすると、そこにまた別の歌が出来る。それがまた短歌の……、ひいては文学文芸の、一種の魅力ではないだろうか?


 しかし御託を並べるのもほどほどにして、私自身も短歌を作らねばなぁ……。ここしばらく作ってないしなぁ……。


 もうひとつついでながら「そよぐ」を漢字で書くと「戦ぐ」になるなんて、いや知らなかった……。

大阪再発見

2006年04月10日 17時38分00秒 | 短歌
 ドイツにも未練はあるが私にはまだまだ知らぬ大阪がある


先日久しぶりに行った大阪城。改めて見て、なかなか立派な城であった。
桜を観にいくのが目的であったが、城内には「桃園」もあり、様々な色の桃の花が美しく咲き、香っていた。

改めて大阪や関西をそして日本を、もっともっと知りたいと思った。

アホちゃうか

2006年03月27日 05時00分00秒 | 短歌
 「アホちゃうか」「何でアタシがアホやねん」アホも分からぬ女はバカや


「アホ」と「バカ」という言葉の受け取り方による、男女のすれ違いをテーマにした短歌である。

男女に関わらず、最近の関西の若者の間では、「アホ」を使っただけで喧嘩になってしまうというケースが増えているのだそうだ。
元来関西では、「アホ」では喧嘩にならず、「バカ」を使って初めて喧嘩になるというのが、通例のパターンであったと思うのであるが…、最近は関西弁の柔らかいニュアンスも通じなくなってしまったというのか…?

まったく、嘆かわしい昨今の関西人である。
カム・バック・ザ・関西弁!!

死に場所?

2006年02月19日 22時00分01秒 | 短歌
 もしかしてこの病院で死ぬのかな母と二人で歩く坂道

10年前、母は帯状疱疹という病気を患った。
近くの皮膚科医院で診てもらっていたのだが、なかなか痛みがとれず、結局その医院から他の大学病院を紹介された。この短歌は、その大学病院に母と初めて訪れた時の思いを、歌にしたものである。

病院は我が家からクルマで30分程度。我が家から比較的近いところに、こんな大きな大学病院があったとは、それまで知らなかった。
その5年前、父が死んだのは地元にある病院だった。結構大きな病院ではあったが、その大学病院の比ではなかった。もしもあの時、父がこの病院にかかっていたら、父は死なずに済んだかも知れない。別に地元の病院を悪く思っていた訳ではないが、大きく立派にそびえ立つ大学病院の建物を見て、思わずそんなことを思ってしまった私だった。
それなら母は…?ここで死ぬのだろうか…?そしてそんなことを思う私自身も、やはり死に場所はこの病院なのだろうか…?そんな疑問や不安が、ふとよぎった瞬間であった。

母は、その後約7年間麻酔科に通った他、眼科で白内障の手術を受け2週間入院。また内科や耳鼻科などでもお世話になり、今も数ヶ月に一度のペースで通院を続け、かれこれもう10年になる。
その間、始めは母の付き添いで行っていた私自身も、やがて内科を始めいくつかの科で診察を受けたし、巻き爪の手術で2泊3日の入院も経験した。そして今度は兄が一昨年の秋以来、週1度骨折の治療に通っている。

この病院と私たち家族が付き合い始めて、マル10年。その間幸いにして、家族3人誰の死に場所にも、なってはいない…。

ワラ人形は使っていない

2005年12月15日 02時27分49秒 | 短歌
 「そんなことしてたらいつか酷い目に…」思っていたら殺されちゃった
 クマちゃんのシャッターにある「廃業」の貼り紙悲し店主殺さる

駅前の薬局が廃業閉店して、2ヶ月が経った。シャッターに描かれていた動物たちの絵も、最近になって消されてしまった。

この薬局が開店したのは、今から10数年前。始めは若いご夫婦二人だけで営む、小ぢんまりとした店だった。ご夫婦はいつも明るく心安い人柄で、私もよくこの店を利用していた。薬の配達もしてくれたし、ご夫婦に赤ちゃんが誕生した時には、美味しい酒も少々進呈したりもして、割と親しい付き合いをしていた。そして数年後、店は近くに建設されたマンションの1階テナントに入り、規模も大きくなり、バイトやパートの従業員も増えた。
ある時、「アルバイト募集」の貼り紙を見た私は、「私はダメでしょうか?」と店主に聞いてみたのだが、「男性はちょっと…」とあっさり断られてしまった。そしてその後の店主の言葉が、やや気に食わなかった。「何でそんなことになってしまったんですか?」。バイトをすることは「そんなこと」と言われるほど、惨めなことなのだろうか?たぶん私が、タレントとして大成功しているように思われていたのであろうが…。
それから数ヵ月後、病院帰りの母がこの店に寄った際、ポイントカードの暗証番号を言い遅れて、レジの女性に「先に言うて欲しかったわ!」ときつい言葉を吐かれたと言って帰宅した。それを聞いて立腹した私は、早速店主に電話で苦情を言った。「いったい何のための会員なんですか?オタクとは今までどんな付き合いしてきたんですか?!」と…。翌日店主から詫び状が届いた。「今後は従業員の教育を徹底させます…」と書いてあったが、その事を境に私たち家族は、その薬局を二度と利用することはなかった。その後も店主は、駅前で私に会う度会釈をしていたが、それでも私は店には行かず、そうして10年近く経っただろうか…?
今年の10月始め、店主は殺害された。あの時詫び状に「従業員教育を徹底させる」と書いていた店主は、店の元アルバイト従業員によって刺し殺されたのだった。私は大きなショックを受けた。

私は、決してこの店主を恨んでいた訳ではなかった。だが多少の嫌悪感を抱いていたのは事実である。そして最近、以前から私が嫌悪感を抱いていた人たちが、病気や事故で急死するといったケースが周辺で相次いでいる。「俺に嫌われたらロクな死に方をせんぞ!」と言っていた冗談も、もう冗談でなくなってきて、いささか自分が恐ろしくも感じる。中には「あの人を恨んで」という申し出もあるが…。

別に私は、人の恨みを晴らす必殺仕事人でもなければ、ワラ人形も使ってはいない…。

機種変更

2005年12月14日 00時24分55秒 | 短歌
 携帯はたった二年で機種変更母は八十六年そのまま

携帯電話のバッテリーがついに限界に来た。慌ててショップへ走ったが、あちこちどこの店もお客が多くて、なかなか対応してくれない。ようやくひと駅電車に乗っていったところのショップで、機種変更が出来た。
しかしたった2年しか使っていないものを、もはやお払い箱にしてしまうというのは、どうも勿体ない気がする。これも貧乏性のひとつと言えるのかもしれないが…。
まあ、だが多少便利にはなった。新しい機種は機能も充実していて使いやすい。まったく昨今の技術の進歩には目覚しいものがある。

技術の進歩と言えば、HONDAの二足歩行ロボット「ASIMO」もまた進歩したと、TVのニュースで伝えていた。走るスピードは、これまでの時速3kmから、一気に6kmと倍速になったし、円周歩行やジグザグ歩行も出来るようになったそうだ。
「ASIMO」がまだゆっくりしか歩けない頃、その歩き方が母によく似ていると、皆でよく笑っていたことがあった。その後「ASIMO」はどんどん進化をしていくが、逆に母は段々老化していく。母は「ASIMO」の進化するスピードには、完全にぶっちぎりに抜き去られてしまった。
人間80年も生きたら、誰でも空を飛べるようになったり、部品交換くらい簡単に出来るようになっても不思議でないような気がするのだが…。そんな夢見たいな非科学的なことを思うのは、私だけだろうか…?


関係ないが…、せっかく慌てて機種変更をしたというのに、昨日からまだ一度も、携帯には電話もかかってこないし、メールも来ない。果たしてあの携帯…、ちゃんと音が鳴るのであろうか…。ちょっと不安で、寂しい気分…。