西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 16

2006年01月31日 23時36分34秒 | 小説
 第三章


 九月になった。が、まだ父長保は病院にいた。思えば自分の留年によって、教育の義務を一年余計に負担させてしまっている父親の苦労に報いる為にも、浩人は何としても学校に行かなければならない。正念場。いよいよその二学期が始まった。
 まだ夏の暑さを残す太陽が、グラウンドに陽炎をたたせ、全校生徒の舞い上げた砂ぼこりを揺らしていた。始業式は、さながら、生徒会長大宅明の追悼集会となった。朝礼台に上った「たぬき」こと畑内(はたうち)校長の小さい体は、なお小さく見えた。そしてその太い黒縁の眼鏡を時々ずらし、溢れてくるものを真白なハンカチで押さえた。度々言葉は詰まり、無言のまま、また眼鏡をずらした。沈黙は、一分以上続くこともあった。浩人達生徒には、その一分が永く永く感じられた。次いで畑内校長は、生徒達に黙祷(もくとう)を促した。が、そのほとんどが黙祷の意味を知らず、「モクトー?」とか「それなんや?」とかいう反応を示した生徒達に対して、畑内校長は、冷静な教育者に戻り、その意味や作法を伝授した。皆は校長先生に言われるがまま、足を揃え、手は横に、やや首をうなだれて、目を瞑(つぶ)った。また永い永い沈黙の一分間であった。
 日当たりの良くない北校舎の温度は、グラウンドのそれと比べると、幾分涼しく感じられた。それは同時に、教室が暗いことをも意味する。始業式を終えた浩人達が、三年二組の暗い教室に帰った時、まず目に飛び込んできたのは、大宅の机の上の花瓶に活けられた、花束であった。ただその花花の鮮やかな色は、教室全体を明るくするには及ばず、むしろ主を亡くした机の寂しさを、より際立たせてしまっていた。しかしそれでも浩人は、長く欠席していた間にどこかへ抹殺されてしまった自分の机のことを思うと、何だか、大宅と大宅の机が羨ましくも思えた。そしてその大宅が、あのとき用意してくれた机もそこにあった。夏休みの間もどこへも姿を隠すことなく、浩人を待っていた。浩人には、大宅の魂が自分のその机に生きているような気がした。浩人は、多少の不気味さと多少の心強さを机に感じながら、席に着いた。数日後、席替えが行われた際に、大宅の机は黒板の左脇に、皆と相対するように置かれ、やがてその上には彼の遺影も立てられ、それ以後浩人と皆は、大宅の笑顔に見守られながらの毎日を過ごすことになった。

(続く)

北校舎 15

2006年01月30日 22時26分00秒 | 小説
 ようやく、クラス会は終わった。学校の正門を出ても、まだ名残惜しそうな他の連中とは対照的に、苦痛にさえ感じるその場を、早く立ち去りたかった浩人であったが、ひとつだけ心残りなことがあった。去年の修学旅行の際、乗り物酔いをしやすい浩人の為に、バスの窓際の席を常に譲ってくれた石岡琢也(いしおかたくや)に、一言礼を言いたかったのだ。浩人には、それが去年の言わば唯一のいい思い出であった。
「石岡、ありがとうな」
「何がや?」
「修学旅行の時、俺ばっかり窓際にすわって」
「……」
 浩人にはいい思い出であっても、石岡は記憶にすらないらしい。ぽかんとしている石岡の顔を見た浩人は、素早く自分の財布から千円札を一枚取り出し、それを石岡の手に強引に握らせ、「ほんまにありがとう。ほならな、バイバイ!」と一方的に台詞(せりふ)を吐き、石岡やたむろする皆から逃げるようにして、その場から走り去った。後を追おうとする石岡を振り切って走る浩人の目から、涙がとめどなく溢れた。一枚の千円札は、大黒先生や石岡らといた三年八組に訣別する為の、浩人からのささやかな手切れ金となった。
 浩人は思い出し、考えた。去年彼らの卒業の前に立てた、自身の目標を。それは、アナウンサーになることであった。
 先に卒業していった皆のそのほとんどが、自分の意思ではなく、ただ周りの皆がそうするから、なんとなく主体性のないままに進学していこうとしている。まだ恐らく、誰も自分の将来の仕事について、具体的に計画している奴はいないだろう。それならば、自分はいち早く、将来の具体的な目標を立てよう。それがアナウンサーだった。浩人が小学一年生の時、昼の校内放送で自作の作文を朗読して以来、漠然とながら、アナウンサーという仕事に憧れを感じていた。それを具体化しようと考えた。体の弱い栗栖には無理じゃないかと言う友人もいたが、浩人はその忠告を聞こうとはしなかった。先に行ってしまった皆を、いつかは抜き返したい。その為にも、浩人は抜き返したことを皆に明確にできる仕事に就きたかったのだ。
 もう振り返ることはない。振り返っても、無意味な連中と無駄な時を費やすだけだ。そこに自分の席はない。自分の席は、あの煤ぼけた北校舎にある。大宅が用意してくれた机が三年二組の教室で待ってくれている。自分の席で、自分の目標に向かって頑張るしかない。そう考えた浩人は、またテレビにかじり付きとなった。とはいえ、漫画やバラエティー番組にではない。夏の甲子園の高校野球を一日中観た。ラジオを聴きながらテレビ画面を観て、実況アナウンサーを真似て、口を動かした。それは浩人が心新たにアナウンサーになる為の勉強を本格的に始めたと同時に、二学期に友達と存分にお喋りする為の、ウォーミングアップのようでもあった。

(続く)
 

北校舎 14

2006年01月29日 23時35分00秒 | 小説
 やがて大黒先生は、仕事を理由に早々にその場を退出したが、一度無意味を痛感してしまった浩人には、先生のいるいないに拘(かかわ)らず、すべてが無意味に感じられた。
「それでは三年八組の、第二回クラス会を始めます」
 幹事の開会の言葉に、浩人は驚いた。浩人はそれが第一回のクラス会だと思っていた。が、既に第一回のクラス会は、浩人の知らない内に行われていた。多分浩人の名前は、一旦名簿から削除されていたのだろう。それを誰かが気をつかったのか、間違ったのか。何にしろ浩人は、手違いで、この第二回のクラス会に呼ばれてしまったらしかった。当然といえば当然ではある。浩人は他の連中とは違って、まだ卒業していない、留年生なのだから。つまり浩人は、お呼びでなかったのだ。場違いだったのだ。そこにも、浩人の席はなかった。そう感じてからのクラス会は、浩人にはなおも無意味なものとなってしまった。
「僕はまだ卒業していませんので……」
 一人ずつ順々に近況報告をした際にも、浩人はそう発言した。が、その後何を言ったのか、自分の言葉を憶えておらず、他の者の近況報告も、ほとんど憶えていない。五感に敏感で、記憶力に長けているはずの浩人が、ここまで記憶を消してしまうなんて、よほど無意味と感じ取ったのであろう。その後は場をもたせる為に、伝言ゲームや発電所ゲーム、トランプを使ったウインクキラーなど、たわいもない室内ゲームで時間が過ぎた。それもこれも、他の皆には楽しいひと時だったのかもしれない。しかし浩人には、やはり馬鹿馬鹿しいほどに無意味で、無駄なひと時に思えた。

(続く)

北校舎 13

2006年01月27日 23時37分01秒 | 小説
 クラス会は、担任であった大黒太司(おおぐろふとし)先生の当直の日に合わせて、東野中学校で催された。ただ夏休みで人のいない本校舎に大勢の人数が入るのはまずいとか何とかいうことで、どういうわけか三年八組とは全く関係のない、改築工事中の校舎の代わりに仮に建てられた、運動場の隅にあるプレハブ教室が、その会場となっていた。
 会場には既に、幹事役であろう何人かの女子がいて、教室の机の配置換えをしていた。
「あ、栗栖君、お久しぶり。元気? 早いね、もうちょっと待っててな」
「うん……」
懐かしいクラスメイトとの最初の会話は、それだけだった。そういえば彼女ら女子とは、去年も余りお喋りした記憶は、それほどなかったな、と、浩人は改めて思った。
 彼女らとよそよそしい挨拶を交わして、しばらくはプレハブ教室の外に突っ立ったまま、待っていた。そして一人二人と会場にやってきた連中との会話も、皆親しみのないものとなった。それはまたやがて、スポーツマンで武道家の割には、暑苦しそうな巨体を揺らしながら歩いてきた大黒先生にも、同じことが言えた。
「……確か、白川先生のクラスだったよね」
「はい、……事故があったみたいで……」
「そうらしいね。たいへんだったね、……ま、君も頑張って……」
 先生との会話は、それだけだった。もっとも、関西人の偏見かも知れないが、大黒先生の冷たい感じのする東京弁を、浩人はそう長くは聴きたくなかった。
 柔道・剣道・合気道、それに空手、合わせて十数段。それがこの武道家たる大黒先生のキャッチフレーズのようなものだった。元来武道家という人種は、皆これほどまでに無口なものなのか? いや、そんな定義づけはないはずである。だがこの先生ほど無口な担任は、浩人の小・中・高校生活を通じて、他にいなかった。前の年、浩人が学校を長く休んでいた時にも、この担任は電話一本かけてこなかった。浩人にしてみても、別にこの担任と親しく話をしたかったわけではない。ただ、この生徒と会話や対話のない国語教師は、浩人が求めていた担任のイメージではなかったのである。つまり、浩人とは相性の良くない、言い換えれば、浩人にとっては無意味な担任であった。無論、浩人の留年が、すべてこの担任の責任にあるとは言えない。しかし先生と生徒、その人間対人間の相性の善し悪しが、浩人という一人の人間の人生を左右させたことは、事実と言えよう。浩人は、去年一年の無意味さを改めて痛感していた。

(続く)

北校舎 12

2006年01月26日 23時41分02秒 | 小説
 大宅の告別式は、その翌日に行われた、が、浩人は参列しなかった。それは、一言の言葉も交わすことのなかった、大宅や三年二組のクラスメイト達に対して、決して無関係を決め込んでいたからではない。その時まで無関係を決め込んでいた自分が、こんな時だけ、同じ三年二組の一員らしく振る舞って、のこのこと出て行ける資格はないと思ったから。それに、あの時机も椅子も無くて困っていた自分に、不言実行で席を用意してくれたあんないい奴を見送らなければならないなんて、そんな悲しいことが、浩人にはできなかったのであった。
 浩人は、若くしてその将来を絶たれることになった大宅の無念さと、その彼の死に直面したクラスメイト達のことを思いながら、まだひと月余り残されたその年の夏休みの過ごし方と、その後に控える二学期という正念場の迎え方を、ここしばらくの内に考えねばならなかった。

 正念場正念場と思えども、二学期に対する具体的な対策が何も浮かんでこなくて悩んでいた浩人に、一枚の葉書が届いた。浩人が前の年に在籍していた三年八組の、クラス会への招待状だった。確かに去年、信州・富士・箱根の修学旅行へも一緒に行った懐かしい仲間達に、久しぶりに会ってみたい気もした。でもまだ一人だけ卒業もしていない自分が、今更そんなクラス会に出席しても、いい恥さらしになるのがオチかも知れないし……。いろいろ考えてみた浩人であったが、留年は浩人の個人的な理由による希望留年であるわけで、別に悪いことをして、彼らに会わせる顔がない、というような後ろめたいことがあるわけではなし、それにどうせ暇なのだから……。そう思って尻ごみなんかせずに堂々と行ってみることにした。
 八月初めの、やはり暑い日。浩人は学校に向かって歩いていた。普段はあんなに行きたくない学校へ行くにしては、足取りが軽く感じられた。それが夏休み中の午後であったからか、いつもの学生服を着ていないということからか、その理由は浩人自身にも分からなかった。葉書に書かれていた午後一時三十分という、クラス会の開始時間よりだいぶ早めに学校に着いた浩人は、一学期中の喧騒から解放されて眠っているような学校の、閉ざされた正門のすぐ脇にある小さな通用門を潜った。校内の静寂は、生徒会長という主を突然に亡くしてしまった学校の、悼み悲しみの表情にも思えた。

(続く)

北校舎 11

2006年01月25日 00時00分01秒 | 小説
 帰り道、バスが来るまで、まだ少し時間があったので、家にいる母松江に電話を入れることにした。バス停のすぐ側にも、赤い公衆電話はあったが、浩人はまだ使ったことがないプッシュ式の電話を一度使ってみたかったので、わざわざ少し離れた信号のある交差点の横断歩道から大通りを渡り、ぐるりと廻って、丁度さっきとは反対側のバス停の側にある、黄色いプッシュ式公衆電話の置かれたボックスに入り、ボタンを押した。
「この電話な、プッシュホンで、かけてんねんでぇ」
 得意そうに言った浩人であったが、電話の向こうの松江には、それが見えるはずもなく、声も今までの電話と何ら変わりはない。松江は、それがどうしたのという感じで「あ、そう」というそっけない返事をした後、今度は声の調子を変えて、ゆっくりと、浩人に諭すようにこう続けた。
「あのねえ浩人、あんたな、大宅君て知ってるか? おんなじクラスの大宅君……」
「え……? ああ、確か、生徒会長しとる奴やろ」
「……その大宅君がな、亡くなったんやて。海で溺れて、死なはったそうやで」
 冷房など効いているはずのない、真夏の暑い暑い、蒸し風呂のような電話ボックスの中で、浩人は一瞬、その暑さを忘れた。頭がパニックになった。なおも続いて、電話連絡してくれた誰かから聞いたという、告別式の日時を伝える松江の声に、浩人はただ茫然と、そして他人事のように、「ふうん」とか「へえ」とかいう生返事を発するばかりであった。浩人がその時初めて使ったプッシュ式電話は、浩人に思わぬ訃報を伝えた。
 家に帰ると、松江が朝刊を見せてくれた。紙面には<中三生 水死>の記事が、小さく載っていた。大宅は担任の白川先生とクラスの仲間ら数人で海水浴へ行き、その内、姿の見えなくなった大宅を捜したところ、数時間後に水死体で発見されたという内容だった。そういえば終業式の日、何人かで待ち合わせ場所の確認らしき話し合いをしていたことを、浩人は思い出していた。

(続く)

北校舎 10

2006年01月24日 01時32分00秒 | 小説
 そんなチャンネル争いも泣きの涙も、家庭から消えたことがある。この年、浩人の中学校生活四回目の夏休みの直前、父長保が、肋膜炎(ろくまくえん=現在でいう胸膜炎)で入院してしまったからである。
 父と子の些細な争い事はなくなったものの、これまで病気らしい病気もしたことがない長保の入院は、チャンネル争いのそれとは較べものにならないほどの、家庭の一大事であった。松江は、夫の入院する街の病院まで、バスを乗り継ぎ、一時間余りかけて通った。週に四、五回は通っていた。その度に大きな荷物を提げていた松江の腕は、長保の退院する三ヵ月後には、腱鞘炎(けんしょうえん)にかかってしまうほどになる。浩人も時々は荷物を持って、松江に付き添い、病院にいる長保を見舞った。しかし満保だけは、一度も病院に足を運ばなかった。喧嘩のプロみたいに恐いものなしの満保にも、どうしても勝てないものがあった。それが病院であり、医者である。松江も浩人も、満保を何度か病院に誘ってみたりしたが、結局行かなかった。
 その満保が、一度だけ病院の近くまで行ったことがあった。七月も終わりに近づいた頃、浩人と二人で、映画を見に行った時のことだ。夏休みには一度街に出て、映画を観る。それがこの兄弟の子供の頃からの習慣だった。子供の頃はどちらかの親が同伴で、漫画映画や怪獣映画を観ていたが、兄満保が高校生になった頃からであったか、兄弟二人で観にいくことを、親も認めるようになっていた。この当時は、オカルトものやパニックものが流行(はや)っていて、その夏休みに兄弟が観たのは、大きなタンカーが、テロリストによってシージャックされるというパニック映画、『東京湾炎上』であった。映画の後、ハンバーガーショップで立ち食いしながら、浩人は「病院に行かへんか?」と兄を誘ってみたのだが、案の定満保は「帰ろ」と言うので、結局この時も病院へは行かず、帰ることにした。

(続く)

北校舎 9

2006年01月23日 00時10分00秒 | 小説
 街の大きな郵便局に勤めている浩人の父、長保(ながやす)は五十九歳。来年で勤続四十年を迎える。朝八時過ぎに家を出て、夕方六時過ぎには帰宅する。真面目で実直な、仕事の虫である。この親方日の丸思考の強い父親は、やはり大のNHK好きであった。よって浩人が自由にテレビを見られるのは、六時過ぎまで。その後のチャンネル権は、暗黙の了解の内に長保のものとなる。たとえ浩人が、他に観たい番組があっても、いつも泣きの涙で長保に譲らねばならなかった。長保は子供を怒鳴りつけたり、殴ったりはしない。むしろ普段家では無口で、それがかえって大きな威厳を形づけ、浩人はこれに太刀打ちできずにいた。
 ちなみに触れておけば、浩人は漫画以外の本をほとんど読まない。視野が広いというのか、注意力散漫というのか? いやに五感に敏感なところがあり、本を読んでいても、同時に周りの動きや音などにも、すぐに気が向いてしまう。そうなると本の内容がぼやけて、理解できなくなるのはおろか、場合によっては目の前に見えるものすべてがぼやけ、丁度目が廻ったのと同じ状態になり、気分が悪くなることさえあった。要するに神経質なのである。学校というところは、教科書を読みながらノートをとり、先生の話を聞く。周りの生徒も気になるし、窓の外の景色や天候の変化……と、考えるだけでも、疲労困憊(こんぱい)してしまう。なるほど浩人の学校嫌いの要因は、こういうところにあったのかもしれない。
 その点テレビは、ブラウン管という四角い枠を観ているだけでよく、楽だった。だが、さすがに長保に気をつかいながら観るのは苦痛だったから、敢えて争うのは避け、大概は泣く泣く身を引いていた。
 チャンネル争いは、もっぱら兄の仕事だった。浩人より六歳上の兄、満保(みつやす)は負けん気が強い性格の持ち主で、街の小学校から転校してきていじめに遭った際にも、やられたらやり返すという信念で、常に敵に討ち勝ってきた。病弱で気弱な弟からみれば、まるで喧嘩のプロみたいな男である。満保は父親に対しても、そう簡単には引き下がらなかった。

(続く)

北校舎 8

2006年01月22日 00時47分32秒 | 小説
 第二章


 学校に行く日も行かない日も、浩人はいつも家でテレビばかり観ていた。浩人の住む市営住宅は、市内といえども、はずれの田舎町にあり、付近に遊びに行けるような場所は少なかった。それに小学生の頃、学校を休んでいるくせに、秋祭りのお御輿(みこし)を担いでいたところを誰かに見られて、それを担任の先生に告げ口されたお陰で叱られたということもあって、そんな経験上、外出しないで家で好きなテレビを観ているのが、一番の安全策とも心得ていた。だから朝から晩まで観ていた。そんな浩人に母親は何も言わず、好きなだけテレビを見せてくれた。
 浩人の母、松江(まつえ)は五十六歳。四十歳の時、浩人を生んだ。当時では珍しい高齢出産にも拘らず、浩人は丈夫に生まれた。しかしそれも束の間、生後四十日目で急性肺炎にかかり、瀕死の赤ん坊は、深夜、救急車で病院へ運び込まれることになる。奇跡的に一命は取り留めたものの、それを含め十歳までに入院歴三回。病弱で、近所のいけ好かないオバハン連中からは、「鰯っ子」と陰口を叩かれるほどガリガリに痩せた子だった。
「あんたが弱いのんは、お母ちゃんのせいや」
 松江は、たまにそんなことを口にした。浩人を病弱な子にしてしまったのは、自分の責任だと言うのである。だから松江は、いつも浩人に優しかった。人から時々「過保護だ」とか「甘い」とか、指摘されることもある。そういった指摘に、勿論困惑を覚えなかった松江ではない。しかし松江には、浩人が学校へ行かなくても、テレビ漬けになっても、生きていてくれさえすればいい、そんな切実な思いがあった。また一方、浩人にしてみれば、松江のそういう自由奔放な育て方に逆に自活を促され、独り歩きを執拗に迫られているようで、そこにかえって厳しさを感じてもいた。そのように母親と息子の思いが交錯しながらも、やはり浩人は家でテレビを観ていた。だが父親は、そうは自由にさせてはくれなかった。

(続く)