その日は地鳴りのような音が遠くから聞こえている気がして珍しく早朝に
目が覚めた。当時両親と共に八尾市に住んで、2Fで寝ていたのだ。
地震なんてほとんど経験した事が無く、揺れても震度1とか2程度しか知らず
この日も箪笥の上に置いていた目覚まし時計が落ちて来たくらいで大した
地震では無いと考えて会社へ行くべく準備を始めた。この家は近鉄大阪
線の線路まで田んぼを挟んでいるだけなので、電車が通ると耳をすませば
音が聞こえる。そして電車が通過する音が聞こえた。
準備が整い出発しようとすると母が不安がってもう少し家に居て欲しいと
言うので仕方無く会社へ電話し、遅れる旨を同僚に伝えた。同僚は
前日大阪に宿泊し本町の会社まで徒歩で移動し、会社に着くと机が倒れ
壁にひびが入っていると言っていた。
この時はTVでもそんなにひどい状況を伝えてなかったと記憶している。
なので難波に着くまで私は普通に会社へ出勤する積りだった。それが難波へ
着くと御堂筋線が停まっていた。仕方無く地上を本町へ向かい歩き始めた。
御堂筋ではガラスが割れたビルなど被害が大きい事に気が付いた。
会社に着いて事務処理をしていた。暫くすると先輩がTV見に行こうと
誘われ「勤務中に何と不謹慎な事を言う先輩だ!?」と心の中で
思っていた。周囲にいた他の若手社員たちも皆行くと言うのでついて行った。
TVをつけたら高速道路の高架が倒れているところが映し出されていた。
洋画を見ている気分だった。それがリアルな画像と思えなかった。
それが現実と認識出来るまで暫く時間を要した。それを認識した途端
愕然として暫く思考能力が停止した。神戸市役所の建物の一部が
倒壊した事も知った。自分が担当している顧客はその市役所の裏手辺りに
有ったので心配になった。会社の電話でその顧客に電話をしたが繋がらず
何度かけてもダメだった。公衆電話の方が繋がるらしいと聞いたので
会社近くの公衆電話へ走って行き電話した。繋がった。電話に出られたのは
技術職の少し40代の男性で天井が抜け落ち、机など倒れて書類が
散乱しているので片付けをしていると言う。その会話をしている時に余震が
来ていた。
真面目で実直な方で、電話で何回もビルが危険だから逃げるように
勧めたが一向に聞いてくれず暗くなっても作業を続けられていた。
その週末だったか翌週末だったか顧客先へ救援物資を届けに行く事に
なった。救援物資を持って行くため車での抜け道が無いか?
当時インターネットは普及しておらずダイヤルアップのNiftyで車の抜け道を
探したものでした。でも国道2号線43号線もダメで有馬からの経由だと
行けそうでしたが、道路が陥没しているところが有るのでかなりリスクが高いと
思われ車での移動は諦めました。電車で有馬経由で向かう事に決めました。
先輩と待合わせ時間を決め帰宅。
帰宅後、通常は灯油を入れるポリタンクを探し回って八尾の
ホームセンターを彼方此方探し回ったが見つけられずにいた。駐車場向いの
お米屋さんに声を掛けたら在庫が有り1つ分けて貰いました。
それと2Lのペットボトル×??に水を入れ持って行くことにしました。
適当なキャリーバッグが無かったので兄のスキーバッグを借りて運ぶことに
しました。
相当重かったのと神戸に着いてからは道がガタガタでスキーバッグの小さな
コマでは全く役に立たない事が判明し、泣きそうになりながら運びました。
最初の目的地は会社の課長の家です。三宮の山の上で本当に水を全て
捨ててしまおうか?と思いながらも捨てずに運びました。
意外にも給水車に拠り水は潤沢に有るそうで課長宅では珈琲やら何やらと
歓待されてしまいました・・・(^^;
そして顧客先へ行きたいと言うと車で送ってくれることになり大変助かりました。
車中から街並みを見ると崩れた建物などがたくさんで見ていて辛かった。
そして顧客先に行くと顧客の主要メンバーがいらっしゃり、訪問を喜んで
下さいました。 そして救援物資としてポリタンクなどを渡すとポリタンクが不足
していたらしく大変喜びながら目の前で苦労した水を捨てられてしまいました。
そして帰ろうとした時に顧客からもう移動手段ないんじゃない?と言われ
ました。
関空だったか?から高速船が往復していて顧客先の裏手に発着するのを
確認していたので、それで帰る積りでした。それが最終便は出た後でした。
バスも出ているハズで見に行くととても長い長い行列に成っており、帰ることを
諦めました。そしてその顧客先の事務所で寝かせて貰いました。
私はソファで先輩は机だったかなァ?何回も大きな余震が来てコワかった。
昨日の事のような、遠い記憶のような20年でした。