夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

常識を超える力(祈りは善なる神の心に近づく最良の道である)

2016年04月19日 22時14分46秒 | 真理の言葉
一人の尊い個性を失ったように見えますが、この身は幻のようであり、浮雲のようであり、稲妻のようであり、
水流のようであり、焔のようであり、夢のようであり、唯業力に転じるようであり、無常であり、
堅固なりと見ゆれど必ずや滅びる時きがくるのであります。

幻の如く、虹の如く、稲妻の如く、夢の如く、
過ぎ去るものは実在にあらず。
空しきものは我にあらず、
死するものは我にあらず、
無常なるものは我にあらず。

法身こそまさに我なり。
佛身こそまさに我なり。
金剛身こそまさに我なり。
不壊なるものこそまさに我なり。
死せざるものこそまさに我なり。
盡十方に満つるものこそまさに我なり。

一人の尊い個性はこのように永遠に生きつづけ、光明輝く十方世界に存在するのであります。



常識を超える力(祈りは善なる神の心に近づく最良の道である)

人生のすべてへの道を敬虔なる祈りに始めて、感謝に満ちた祈りに終わるような生活をなせ。
さすれば神の無限の愛と無限の智慧と無限の生命と無限の豊かさと無限の平安をこの現実の世界に現すことができるようになるのです。

吾々は常識的に判断して、現実には到底不可能と思える問題に遭遇すると、もう常識的判断ではとても駄目だと思い、
あきらめ、祈ることすらも捨て去ってしまうことがありますが、しかしそれが正しい要求である限り、到底駄目だと見える事でも、神においては不可能なことはないのであります。
どんな失敗、どんな問題でも神はそれを償ってもあまりある救済策を与え給い、
解決できない問題はないのであります。
神の愛がそこにあらわれるとき、どんな人も皆、満足できるような解決に到達することができるのであります。









                     


4月18日(月)のつぶやき

2016年04月19日 04時53分34秒 | 日記・エッセイ

陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え) goo.gl/LDe33o


陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え) fb.me/7Rm84mH3h



陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え)

2016年04月18日 21時17分08秒 | 真理の言葉
陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え)

燈火(ともしび)の消える前は一時却って明るいと同じように、運命の明け方のの来る前に真っ黒な真夜中が来る。
けれどもこの真っ暗な真夜中は一層明け方の近づいた証拠でありますから、
コロンブスのように前途を信じて確信をもって突進すればよいのであります。

地震が長期化しますと人間の心深く、不安が漂っているようです。
地震の回数が増え続きますと不安が生じ、狭い病室から一刻も早く外へ逃れたいと思う心理が働きます。
また震度七程の耐震強度がある建物でも、自動ドア、非難階段等の扉に歪み等が生じて開かない危険があります。
病棟により病室の扉等をテープ等で固定して開放のままにしているところがあります。






柔和なる者地を嗣がん

幸いなるかな柔和なるもの、その人は地を嗣がん

                            マタイ伝 第五章

『地を嗣ぐ』と云うのはエジプトの奴隷になっていたユダヤ人が故国のイスラエルの地に帰ることができると
意味になぞらえて『地を嗣ぐ』と言ったのです。
心が柔らかいというのは『我』の無いことであります。素直な心のことであります。
『そのままの心』『無構えの心』のことであります。
キリストが『人若し汝の右の頬を打たばこれに左の頬を巡らして打たせよ。
十里の公役を強いられなば、二十里をゆけ、人若し汝を訴えて下衣を盗らんとする者には上衣をも取らせよ』と言っている意味は、
それは柔和な心であり、抵抗がないこころです。そのままの心なのです。

このように心柔らかい心、我のない素直な心である無抵抗の真理を実践することは本当の強さがあらわれてくるのです。
そのような心で相手に素直になりますと、相手がこちらの思った通りに、素直になるのです。

柔和なるものほど強いのであります。硬いものは壊れる。
鋼鉄で出来た橋でもくだけるけれども、柔らかい空気はくだけることはない。
爆弾で鉄骨の建物がくだけるのは、爆風である、柔らかい空気の力なのであるのです。
柔らかい真綿が爆風に当たっても吹き飛んで傷がつかないのです。

このように柔らかい心になりますと心が一ヶ所に執着しない、心が自由に伸び伸びとしている、
だから肉体的にも、凝りが生じることがない、また血液の循環も滞りなく自然に順調に流れ、
健康が保たれるのであります。










                     




4月17日(日)のつぶやき

2016年04月18日 04時59分55秒 | 日記・エッセイ

難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。 goo.gl/QVysa1


難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。 fb.me/3MmZPsNaP



難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。

2016年04月17日 18時47分37秒 | 真理の言葉
難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。

災害派遣医療チーム(DMAT)に参加していたスタッフが今日交代で帰ってきました。
このような地震等の災害に対して病院の役割は大変重要であります。
以前も古くは長崎原爆の被爆者の搬送の受け入れ、雲仙の普賢岳の火砕流、直ぐ近くでJRの特急列車の横転事故とありました。
その度新しい思考、システム、器材、屋上にヘリポートの増設等により進歩して来ました。
しかし原点は患者の傷、不安を取りのぞき、心を癒し、健全な心身と生活の再建が永遠のテーマであります。
それぞれ人間には一人一人に個性と異なる社会的背景が存在していますので、それを読みとり、優しく、慈愛を以ってその人の運命に寄り添いカウセリングを通して悦びの道へといざなうことが病院の役割だと思います。



もしあなたが解決し難き難問題に直面して未来の恐怖におそわれるならば、自分でその問題を解決しようとしないで、
あなたの心を神の方へふり向けよ。
神と直通してつながりなさい。神はあらゆる智慧と力をもっておられのである。
神はあらゆる解決方をもっておられるのです。神に全托せよ。
そのお任せの心になった時に、突然とあなたの心に解決の道が浮かぶのです。
また誰からかの深切な導きが起こってくるのです。
恐怖心が起こっている限り、恐怖は不信の感情の現れであるから、神の御心である愛を理解できない状態であります。
それ故神の愛と完全さを深く信じて、平和な心境になって神にお任せることによって解決の道を得ることができるのです。
恐怖心を捨て、我れ『神の最高の体現者である素晴らしい神の子である』と段々乎として宣言せよ。
我れ神のみ名に於いて我れ『この難問題を解決して幸福の道へと進軍するのである』と段々乎として宣言せよ。




4月16日(土)のつぶやき

2016年04月17日 05時15分05秒 | 日記・エッセイ

瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。 goo.gl/aAbDG4


瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。 fb.me/V1qs495K


明るく勇敢に進もう、
これから運命が開けるのだ。



瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。

2016年04月16日 20時55分30秒 | 真理の言葉
瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。

早朝一時二十分頃、突然二台の携帯の緊急地震速報のアラームが鳴り響き起され、壁に取り付けてあるエアコンが揺れ、落ちて来るのではないかと不安になりましたが、次第に揺れが収まりました。
朝二人の孫がやって来て、やはりお母さんのスマホのアラームで夜中に目が覚めたそうです。
震度四から五弱にアップしていました。
間断に地震の揺れがやって来ます。
もう一度大きいのが来るのではないかと思っています。
渥美半島に嫁いでいる長女から安否のメールが入りました。
直方市のマンションに暮らしている三女からは食器棚の引き出し等が出て来たそうです。
博多の十三階のマンションにいる二女の娘婿は高速道路、橋等の設計技師であるので、東北の大地震の時にも現地に出張していました。
今回の地震でも道路、橋等の復旧に努力するのではないかと話していました。
東京等あちらこちらに居る子供達から安否の連絡が来ました。





吾々の生活を、全ての瞬間を、人類に対して、またすべての物事に対して善念を以って満たすことが、自分の生活を幸福に築き上げる秘訣であるのです。
ゲーテのヘルマンとドロテーアに『瞬間のみが、人間の生とその全運命とを捧げる』と書かれています。
またイタリア紀行にも『瞬間が万事である』と書いています。
想念の爆発力により運命を前進させるのです。
その想念の舵をとる方向に自分の運命を前進させるのです。
憎む者は憎まれる方向へ、愛する者は愛される方向へ、与える者はその与えた量により自分自身に与えられのです。
人間には、生きる権利、自由である権利、幸福を追求する権利が与えられ、この三つの権利が侵害されない時、人間は幸福と生き甲斐を感じるのです。
生活を創造して行く中でこの三つの権利を隣人から奪ってはならないのです。
隣人に対してこの三つの権利を確保してやるように努力する時、自分自身のこれらの三つの権利も確保されるのです。
他の人の生活権を脅かしてはならない、他の人の自由を縛ってはならない、他の人の幸福を奪ってはならない、このことが自分の生活を幸福に創造する根本原理であります。


4月15日(金)のつぶやき

2016年04月16日 04時58分27秒 | 日記・エッセイ

神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。 goo.gl/U8zbwJ


神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。 fb.me/81WjySAFq



神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。

2016年04月15日 22時22分25秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。

今回の地震のようにある日ある時間に突然運命は訪れることを知らされました。
勤務先の病院で私が取り扱っている有毒であるエチレンオキシドガス薫蒸消毒装置が稼動中であり、
安全の為地震への対応すべく、自宅から当直の施設係りへ直通の電話を入れましたが、
電話が込み合っていて、なかなか繫がらず、相当時間が経ってから連絡が取れました。
後に施設係から連絡が入り異常は無いとの事でした。
ガス漏れ警報器が装備してありますが、このような時には電話も当てには出来ない事が思い知らされ、
自らが現場へ足を運ぶことが大切であることを教えられました。




平らな地面に二十㎝幅程の線を引いて、その中からはみ出さないで、真っ直ぐ歩けと言われたら、
誰でもはみ出さないで歩く事が出来ますが、しかし同じ幅の道が断崖絶壁の高さにあり、
その上を落ちないで歩く事はなかなか困難であります。
それは下の深い谷底を見て、落ちたら大変なことになると思うと体の平均を失って落ちてしまいます。
平らな地面では体の平均を失わないのに、断崖絶壁の高さでは体の平均が失われるのは、
恐怖で『心の平均』が失われてしまうからです。
『心で落ちるかも知れない』と思うから落ちるのです。
水泳でも水に溺れると云う恐れがなくなると人間は水に浮くのであります。
恐れると云う事はどのような事でありましょうか。
例えば高いマンションから下を見ると落ちるかもしれないと恐れます。
フェンスも何も無いと足が震え本当に落ちたりします。
落ちるかもしれないと恐れたのは、実際に落ちた事よりも先に思ったのです。
実際に起こっていないときに恐れて、その恐れた通りに落ちるのです。
このように恐れるのは、まだ実際にもの事が出てきていない時に恐れるのです。
恐れを無くすには、恐れているものは、実際には、まだ来たらないものは、今、此処には無いものであることを知ることであります。
想像の恐怖であります。
自分の心で自分自身を落とし入れ、自分自身で恐怖を描き自分自身が恐れるのです。
そして恐れたものを招きいれ苦しむのです。
神は恐れを与え給はないのです。


われ歳きはまりて安養浄土に還帰すといへども和歌の浦わの片雄波、よせかけ々々還らむにおなじ、
一人居て喜ばはニ人と思ふべし、二人居て喜ばは三人と思ふべし、一人は親鸞なり。
 
                                                    親鸞上人




人間の根元は神です

2016年04月14日 23時58分46秒 | コラム・人文
人間の根元は神です。

先ほど九州では珍しく熊本で震度七、私共の諫早でも震度四の突然足もとから突き上げるような揺れがありました。
下から突き上げるような揺れは始めてでした。
丁度部屋の周りには何百冊の本が積み上げられた本棚が有りましたが、一冊の本も落ちることなく無事でした。
奥様が何処に逃げたら宜しいのでしょうか聞きました。
この家は不思議な家であり、過去にも強い台風が吹いた時にも、周りの殆どの家の瓦が飛びましたが
この家の瓦は一枚も飛びませんでした。




人間の根元は神です。
絶えず、涸れない幸福の泉は、神の導きがあってのみ得られるのです。
神の導きを得ようとするには、神の霊的導きを愛し、神の霊的導きに自分を空しくして奉仕しなければなりません。
自分と云う我があってはなりません。
また自分の我欲があってはなりませんし、執着があってはならないのです。
そのように我を捨て、我欲を捨て、執着を捨て神の導きに奉仕した時、神の無限の智慧があなたに流れ込んで来て、
あなたを幸福である豊かな世界へと導くのです。


4月13日(水)のつぶやき

2016年04月14日 04時49分00秒 | 日記・エッセイ

病気は神様からの有り難いお知らせの『ベル』である goo.gl/qwzK3h


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病気は神様からの有り難いお知らせの『ベル』である

2016年04月13日 20時08分15秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
病気は神様からの有り難いお知らせの『ベル』である。

頑丈な体を持つ同級生が循環内科に入院して来ました。
ある曇りの日に突然『ふーと』なり気を失い救急車で運ばれたと話しました。
それは心不全(うっ血性心不全)ではないのではないかと尋ねると
その通りで長い間病気には罹ったことが無いのにと気を落としていました。
君は野菜を食べているかと問いますと野菜は嫌いであると答えました。
野菜食(ベジタリアン)の食生活をすると血液がサラサラになり循環が良くなり心臓に負担がかからないよと勧めました。
ニワトリのような鳥の生活を始めたらと言うと笑っていました。



肉体を物質の塊と見ないで、それを霊的存在であると観ることは、
肉体を地面の泥のような低さから、霊的存在まで高め上げ尊び崇めることです。
グレンクラークは肉体を美しきものと考えました。肉体を神の智慧と愛と生命との具体化したものであり、
その肉体の姿を美しくリズムカルに、爽快に運動しているのを見るのは神の栄光であり、神の子の祝福であると観じたのです。
グレンクラークは肉体を肉体として観ないで、また物質として観ないで、神の愛と真理と歓喜の霊的表現として見たのです。
病気を神様からのお知らせである『ベル』だと考えたのです。
天理教で病は『天よりの手紙』と云っているのと同じようなものです。
神と人間と直接接触できるのであると云うことがわかると
人間の肉体の素晴らしさが本当にわかってこれを真に愛することが出来るようになります。
肉体の各部分は『神の神霊の各要素』であります。
『心臓は神の愛の霊的表現』です。血管を流れる血液は、意識の通路を流れる『歓びの霊の表現』です。
『心臓は愛の表現』でありますから、弱い心臓、または心臓にストレスを持っている人は、
神を、隣人を、真理の言葉を、周りに起こって来る全ての出来事を、
天地の一切のものをより多く、心込めて完全に愛するようにすれば恐れが無くなり、喜びに満たされて、
終には癒されるのであります。


















                     




拝む心

2016年04月12日 18時46分22秒 | 真理の言葉
拝む心

拝む姿は宗派に問わず美しく清らかものであります。

有情非情生きとしいけるものありとしあらゆるものを、すべての人々を分け隔てなく
神、佛の顕れてとして合掌礼拝することが人間本来の姿であります。
動物等には合掌の心、姿は見られません。合掌の生き物が人間であります。
拝み合いの生活は戦争も争いも無い、与え合いの天国極楽浄土の世界であります。
人の長所だけを讃嘆するのでなく、その人の欠点を含めて、全てを礼拝讃嘆することが愛であり、
また吾に石を投げたり、誹謗中傷し迫害する人でも軽んじないで貴方がたは佛のさとりを開く人であるから
心から、ただ礼拝讃嘆することが常不軽菩薩の教えであります。






『礼拝』は仏教辞典には恭敬・信頼の心をもって敬礼すること。
礼拝の種類として、発言慰問・俯首示敬(ふしゅしけい)・挙手高揖(きょしゅこうゆう)・合掌平拱(がっしょうへいく)。
屈膝。長踞・手膝踞地・五輪倶屈・五体投地の九種類がある。
その中の五体投地が最高の敬礼法であると説かれている。
『礼念』は佛を礼拝し、憶念すること。念じ、礼拝すること。

『合掌』は両掌の指をそろえ合わせて拝むこと。心をこめて、相手に信頼する態度の表現。
人間の中にある神聖な面と不浄な面とを合一したところに、人間の真実の姿があるという考えの現れである。
天台では右手は報身佛、左手は応身佛をあらわす。
密教では第七に当たる金剛合掌の外十二種類に分類されている。
堅実合掌・虚心合掌・如来開運合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・帰命合掌
反叉合掌・反背互相著合掌・黄柱合掌・覆手向下合掌・覆手合掌。



法華経常不軽菩薩品 第二十
何の因縁を以ってか常不軽(じょうふきょう)と名づく。
是の比丘、凡そ見る所有る、若し比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、當に作佛することを得べしと。
而も是の比丘、もっぱら経典を読誦せずして、但だ礼拝を行ず。
乃至遠く四衆を見ても、亦復、故らに往いて礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我敢て汝等を軽しめず、汝等皆當に作佛すべきが故に。

常不軽菩薩は乞食僧、托鉢僧の出家僧、在家の信者等のすべての人々を合掌礼拝し、誉め讃え、軽んじないで、
心から敬ったのです。
その故はあなた方は皆、佛の尊い生命を具えた人であり、人を導き救い給う菩薩の道を行じている人であるからです。
釈迦の経を読誦しないでただただ合掌礼拝を行じたのです。
遠くに見えている出家、在家の衆を分け隔てなくまたまた合掌礼拝して、
我は汝等は既に佛の悟りを開いているが故に汝等を軽んじないのです。

『注』
作佛(さぶつ)…佛のさとりを開くこと。
比丘、比丘尼(びく、びくに)…乞食、托鉢僧。出家僧。
優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)…在家の信者。
四衆(ししゅ)…比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四種類の信者。出家、在家の衆。















                     




4月11日(月)のつぶやき

2016年04月12日 04時41分46秒 | 日記・エッセイ

あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。 goo.gl/maQiun


あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。 fb.me/52uzsv4dY


神が与えた善きものはすべての民族に共有されものであります。
すべての民族は神からそれぞれの特質をもち、
それぞれの特性に合わせた場所を与えられています。